春の散歩と師説発見~『源氏物語』に関する些細なこと17
ワタシの仕事がなく山に雪はあり、それなのに滑りに行けないというのは、愚妻Yにはストレスになるらしく、「どこか行きマショウ。普段行ったことない所まで歩きましょう」としきりに言います。
仕方ないから、小金井公園までの散歩で勘弁してもらいました。
小金井公園梅林↑は、今が花盛りです。
さて、それとは関係なく、『源氏』です。「須磨」巻冒頭。源氏が須磨退去を思い立つところなのですが、
「人しげくひたたけたらむ住まひはいと本意なかるべし、さりとて、都を遠ざからんも、古里おぼつかなかるべきを、人わるくぞ思し乱るる。」
という本文に対して、小学館『新編日本古典文学全集』では、次のような訳を載せています。
「人の出入りが多くてにぎやかな所に住むのもまったく本意にもとるというもの、そうかといって都を遠ざかるのも、故郷のことが気がかりであろうしと、あれこれと見苦しいくらいに君は思い困じていらっしゃる」
この訳のどこが「些細なこと」なのかというと、「人わるくぞ」を「見苦しいくらいに」と程度で訳していること。見苦しいくらいに思い乱れるというのは、なんだか妙です。源氏の思い悩む様子が見苦しいほどだというのは、まるでどちらを選ぶか思い悩み身をよじってクネクネしているみたいです。見るからに見苦しい悩み方ってどうやるのでしょう。
そもそも、「おぼつかながるべきを」を「「気がかりであろうしと」とするのも、文法的には説明し難い処理です。
もっともここは、所謂「移り詞」(会話文・心内語が地の文に融け込む源氏独特の表現)の箇所と考えれば、上記ののような処理もギリギリでセーフなんですが…。
おそらくそういう事情もあって近代の注釈書はすべて上記『新全集』と同様の訳をしています。例の文豪さえ、「人聞きが悪いほどお迷いになります」。もっとも文豪の訳だとクネクネにならないのは、さすが文豪というべきか。
さてこれはどうしたモンだろうと思ったのですが、ナント、『新全集』頭注にこの問題の答えがありました。
「隠遁を決意しながら、なお古里のことを気にする迷いを、我ながらみっともないと思う。」
「人わるくぞ」を「我ながらみっともないと」と取れというのです。ナルホド。
形容詞や形容動詞の連用形が知覚動詞に続く場合、知覚する内容を表すことがあるというのは、現代語にも残る「悲しく思います」などという表現を考えると分かり易く理解できます。「悲しく思う」は、思い方が悲しいのでも悲しいほど思っているのでもなく、「悲しいと思う」意味ですモンねえ。
この『新全集』の頭注は、旧『日本古典文学全集』頭注も全く同じです。以前にも書いたことがあるのですが、小学館『旧全集』の頭注は故A先生御執筆のはず。『旧全集』現代語訳は故I先生そこに故S先生が手を加えたのが『新全集』訳でしょうから、知覚内容と取る故A先生説に対して、I先生S先生が程度と取ったということなのでしょう。この部分を故A先生の御説に沿って訳すと、
「『人が多くごたごたしている住まいは不本意に違いない。だからと言って、都を遠ざかるようなことも自邸が気がかりに違いないので、我ながら不体裁だ』と思い乱れなさる。」
このくらいの訳文の方が自然なような気がしますねえ。
まあ、ホントに「些細」なことなんですが、故A先生独自の御説に触れて、ちよっと嬉しかったモンで。~o~
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