花散里という名のあはれ~『源氏物語』に関する些細なこと16
三月前半は予備校屋の仕事が全くなくなります。そうなると、ブログを書きやすくなり、試乗会レポの次は一転して『源氏』です。
『源氏物語』「花散里」巻は、「賢木」巻と「須磨」巻の間に置かれた掌編で、その存在意義についてあれこれと論じられている巻です。今日の「些細なこと」は、「花散里」巻全体の存在意義に関わるので、発展させていけば「些細」ではなくなりそうな「些細」なことです。
「花散里」巻、巻頭近く、源氏の、桐壺院の麗景殿女御邸訪問を語る場面で、妹の三の君、花散里の君を紹介する一節です。小学館『新編古典文学全集』の本文はこうなっています。
「御妹の三の君、内裏わたりにてはかなうほのめきたまひしなごりの、例の御心なれば、さすがに忘れもはてたまはず、わざとももてなしたまはぬに、人の御心をのみ尽くしはてたまふべかめるをも、このごろ残ることなく思し乱るる世のあはれのくさはひには思ひ出でたまふには、忍びがたくて、五月雨の空めづらしく晴れたる雲間に渡りたまふ」
この本文に対して『新編全集』の訳文は、
「その妹君の三の君と、かつて宮中あたりでかりそめの逢瀬をかわすご縁があった後、君は例のご性分から、さすがにすっかり忘れておしまいになるのではなく、かといって表立った扱いもなさらないので、女君は心底から深くお悩みになったようだが、このごろ源氏の君ご自身、世の中の何ごとにつけても心を痛めていらっしゃる、その一つとしてこのお方のことをお思い浮かべになるにつけ、じっとしてはいられなくて、五月雨の空が珍しくも晴れた、雲の絶え間にお出かけになるのである」
この訳のどこが「些細」なのかというと、「このごろ思し乱るる世のあはれのくさはひ」の部分を「このごろ源氏の君自身、世の中の何ごとにつけても心を痛めていらっしゃる、その一つとして」と訳していることです。
この訳に従うと、源氏は花散里との関係で心を痛めていたことになります。しかし、「このごろ思し乱るる世」とは「賢木」巻に語られた藤壺の出家、右大臣専横の政治状況およびそれに付随して起こった朧月夜尚侍とのスキャンダルなどを指すのでしょうから、そうしたいくつもの重大な心痛と花散里との関係が肩を並べて同様に心痛として扱われるのは、おおげさな気がします。
それにそもそも、花散里との関係がそんなに悩ましいなら、その原因である「女君の心底から深くお悩みになった」という悩みを解消してやれば良いわけで、上記の訳文によれば、女君の悩みは、源氏自身のすっかり忘れるわけでもなく、かといって表立った扱いもしない中途半端さに原因があるわけですから、これを解消するべく女君の扱いを変えれば良いだけのこと。
なんだか奇妙な解釈に思われるのですが、実は、手元にある現代の注釈書や現代語訳は全て、ほぼ同様の解釈をしています。
なぜ、このような解釈になるのでしょうか。そのポイントは「思し乱るる世のあはれのくさはひ」の「あはれ」の取り方にあります。この「あはれ」を「心を痛める」と取るわけですが、その根拠は少し前の「人の御心をのみ尽くしはてたまふ」の解釈にあります。「心を尽くす」には「いろいろともの思いをする・気をもむ」などの意味があるので、女君の煩悶のさまを言っていると取るわけです。
ところが、「心を尽くす」には、「真心を尽くす・深い思いを寄せる」の意味もあり、そちらで取ると「あはれ」の解釈が違ってきます。
「心を尽くす」を「物思い」の意味で解釈する根拠は、恐らく直前の「さすがに忘れもはてたまはず、わざとももてなしたまはず」の解釈にあります。この部分が源氏のどっちつかずの中途半端に態度を指していると取るわけです。
つまり、源氏の中途半端な態度が女君の煩悶を生み、そのことで源氏が心を痛めているという論理なのです。
このような論理展開は、一見すると自然な流れにも思われるのですが、しかし、結果的にはこのような読みが前述のような奇妙な解釈を生んでしまっています。
この問題の解決策は、句読点の打ち方にあるのではないかと思われますが、長くなったので、続きは明日。
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