息の長い須磨二題の二~『源氏物語』に関する些細なこと18
昨日の続きです。
この問題を解決するには、副詞「なほ」をどうにかしなければなりません。「なほ」は、本来、「その事態を否定するような状況があるにもかかわらず、事態に変化がなく続いていくさまを表す」(『ベネッセ古語辞典』)などと説明される語ですが、「以前の状態や他のものに比べていっそう程度が進んださまを表わす」こともあるとされ、訳語として「ますます・いちだんと・もっと・ずっと・さらに」などが挙げられています(『日本国語大辞典』)。
それをそのまま『新編古典全集』の訳に代入して「やはり」を取って二つ目の「だに」も「さえ」で訳して、「だに」の類推の意を明確にするために「まして」を補うと、
「これがどこをどうさまよっても、必ずまた逢えることが分っていらっしゃるような場合でさえ、さらに、ほんの一日二日の間別れ別れで寝起きする折々でさえ、気がかりに思われ、女君のほうもただ心細いお気持ちになられたのだから、まして、このたびは幾年どのくらいというきまりのある旅でもなく、再会を期して行方もしらず果てもなく別れて行くにつけても、無常の世の中であるから、もしかしたらこれがこのまま永の別れの旅立ちにでもなりはせぬかとたいそう悲しいお気持ちになられるので」
のようになります。何だか、この方がスッキリして分かり易いですねえ。
そもそも、この「だに」は二つとも類推の意と考えられるのですが、類推「だに」とは「程度軽いものをあげ、言外に重い物のあることを類推させる」(『ベネッセ古語辞典』)なのですから、このように訳すことで、「行きめぐりてもまたあひ見むことを必ずと思さむにて」「一日二日のほど、よそよそに明し暮らすをりをり」という「おぼつかなきものにおぼえ」る程度の軽いものと、「幾年そのほどと限りある道にもあらず」「逢ふを限りに隔たり行かん」という「おぼつかなきものとおぼえ」る程度の重いものの対比がキレイに示されて、とても論理の筋道が通っている感じになります。
ただし、この「なほ」を「さらに」と訳すことが語学的に許されるのかというと、そこが今一つ明確ではありません。古語辞典の類では、「以前の状態や他のものに比べていっそう程度が進んださまを表わす」意の「なほ」には、単純に動詞に掛かっていく「なほ行き行きて」や「なほ奥つ方に生ひ出でたる」などの用例しか示されておらず、このような長い条件句同士を接続詞的に結ぶ用法を、「なほ」に認めて良いのかどうか…ちょっと自信がありません。
でも、この部分をスッキリ訳すには、これしかないんじゃないかしらん。
ちなみに、例の文豪は、この二つの「だに」を二つとも「さえ」で処理していて上記の訳に近いのですが、「なほ」はバックレて無視します。
さすが、文豪…。~o~;;;
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