超久々の「注釈書への疑問」シリーズです。
水曜の朝刊一面のコラム欄に次のような一文が掲げられました。
「いつの世も位や欲は人を惑わせる。鴨長明は鎌倉初期の説話集『発心集』で、名刹の最高職を狙った老僧の妄執を描いた。権勢欲に取りつかれ、ポストが得られるなら地獄の釜で煮られてもよいという倒錯した心境に陥る。」
ううーーーーmmm、ここから都市伝説が始まってしまふかも…。
一読して、どういうことか事情が推察できました。このコラム執筆氏は、『発心集』第三「証空律師、希望深き事」をどこかで読んだか、内容の説明を受けたかしたんでしょう。当該の説話はこのような内容です。
薬師寺の証空律師は、僧官の職を辞して長く、また老齢に及んでいたにも関わらず、薬師寺の別当の欠員に志願しようと考えます。弟子たちは道理を尽くして諫めるのですが律師は聞き入れないので、架空の夢の話で律師を止めようとします。その夢とは、
「この庭に、色々なる鬼の恐ろしげなる、あまた出で来て、大きなる釜を塗り侍りつるを、あやしく覚えて問ひつれば、鬼の曰く、『この坊主の律師の料なり』と答ふるとなん見えつる。」
(この庭に、様々な色の鬼の恐ろしそうな様子の者達が数多く出て来て、大きな釜を用意していましたので、不思議に思われて尋ねたところ、鬼が言うことには『この僧坊の主の律師のためだ』と答えると見えました)
すぐに驚き恐れるだろうと予想していた弟子の言葉に対し、証空律師は耳もとまで口を開けて笑って、「この所望のかなふべきにこそ。披露なせられそ(私の望みがかなうということだろう。他言なさってくれるな)」と答えたというのです。
つまり、弟子たちは、夢の中で庭に鬼が釜を作っていると地獄の釜をほのめかし、このまま現世の地位に執着しては地獄の釜で煮られることになりますよと律師を戒めたのに、律師の方は、その夢は自分の望みが叶う前兆だと喜んだという話なのです。
この説話には二つ解釈の仕方があります。
ポイントは夢の中の鬼の言葉中の「律師の料なり」です。「料」は何かの用に充てるために用意する物品を指し、形式名詞として用いられて「ため」と訳される語です。従って、「律師の料なり」は、⑴「律師の(律師を煮る)ためである」か、⑵「律師の(律師に食べさせる)ためである」と理解できます。
説話の二つの解釈とは、
➀弟子は「料」を⑴の意味で語り、律師も⑴の意味で聞いたが、望みが叶うなら地獄の釜で煮られてもかまわないと開き直った。
②弟子は「料」を⑴の意味で語ったが、律師が⑵の意味だと勝手に受け取り、自分の別当就任の際の祝いの料理の準備と考えた。
コラム執筆氏は、➀の説で読んだか、あるいはどこかで➀の説の説明を聞いたのでしょう。しかし、➀の説には決定的な欠点があります。弟子たちは別当という地位への執着が仏教的罪障になると考えて律師を諫めたのに、当の律師の方は別当への就任自体を仏教的罪障と受け取ったと読まねばならない点です。
もちろん、単なる別当への就任は罪になんかなりません。そんなこと言い出したら、歴代の薬師寺の別当は片っ端から地獄落ちってことになるからね。
「地獄の釜で煮られることになりますよ」という脅しを「それは俺が別当に就任するってことだな」と受け取るというのは無理があるんです。その点で②の解釈の方は無理がないんだけどなぁ。
『発心集』の数少ない学問的な注釈書である「新潮社古典集成」では、校注者三木紀人氏はこの点について明確な説明をしていません。おそらく、➀②のどちらでもお好きなように、ということなんではないかと。
ところが、角川ソフィア文庫版『発心集』脚注には、最後の律師の言葉の「この所望」の所に、
「薬師寺別当になろうという私の願い。地獄の釜が用意されたというのは、欲望がかなえられるからだ、と考えた」と書かれています。
うーーーん、もしや、都市伝説の水源はここか?
玉ちゃんよ、この注ヤバくないかい。~o~
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