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2023年1月18日 (水)

旅の空なる謎かけ歌~『源氏物語』に関する些細なこと19

 久々にデスクワークもないゆったりとした日々なので、久々にゆったりと『源氏』です。

 「須磨」の巻の源氏の憂愁の日々を描く場面には、源氏と臣下の者達との四首の唱和歌が出て来ます。こういう男達の唱和は『うつほ』だといくらでも出て来るのですが、『源氏』では多分ここだけです。『源氏』では省筆しちゃうから。

 その一首目の源氏の歌が今回の些細なことです。『新編日本古典文学全集』では

 「初雁は恋しき人のつらなれやたびのそらとぶ声の悲しき」

このように作られた本文に対して、

 「初雁は都にいる恋しい人の同じ仲間なのかしら、旅の空を飛ぶ声が悲しく聞こえてくる」

という訳がついています。

 コレ、変です。

 「AはBなれや~」は、類例の多くあるパターン化した詠み方で、例えば、『古今集』恋二の小野美材の歌などがそれです。

 「わが恋はみ山がくれの草なれやしげさまされど知る人のなき(私の恋は深い山に隠れた草であろうか、繁茂が増そうと思いが増さろうと知ってくれる人はいない)」

 まったく縁の無さそうに見えるAとBについて同じものだと謎を掛けておき、下の句(~)でその同一性を明らかにする一種の謎かけの歌です。

 この源氏の歌の場合も、「初雁」と「恋しき人」が同じものだと謎を掛けているのですから、下の句は両者の同一性が詠われなければならないはずです。しかし、「初雁」は「旅の空」を飛んで鳴き声をあげるでしょうが、「恋しき人」は「旅の空」を飛んだりしません。「恋しき人」は都にいて「旅の空」にあるのは自分なのですから。

 この奇妙な解釈は、『旧日本古典文学大系』『玉上琢弥 源氏物語評釈』『旧日本古典文学全集』『新潮社日本古典集成』などにも共通して見られます。

 『新日本古典文学大系』と『岩波文庫』は、この点を何とかしようとしたのか、「恋しき人」の解釈を工夫して、この和歌の直前にある「古里の女恋しき人々」という記述を承けて「故郷を恋しく思う者」の意だと取りますが、地の文の表現を源氏の和歌が承けるというのでは、いかにも苦しい解釈と言わざるを得ません。源氏の和歌の中で「恋しき人」とあれば「源氏自身が恋しく思っている人」と取るのが自然です。

 また、古注釈でもこの解決策は発見できませんでした。こういう時に不思議な力を発揮する文豪も、今回は注釈書に追随するばかり。

 ちょっと困ったのですが、予備校の教室で自分が教えたことを思い出しました。「和歌解釈のつながりが悪かったら、掛詞を疑え」。

 本文を「たびのそらとぶ声」と作ってしまうから気づきにくいのですが、「旅の空とふ声」なら明らかでした。

 つまり、「問ふ=飛ぶ」の掛詞で、「旅の空問ふ声の悲しき(旅の空にある自分を見舞ってくれる声が悲しい)」と「旅の空飛ぶ声の悲しき(旅の空を飛んでいる初雁の声が悲しい)」の二重の文脈で「初雁」と「恋しき人」が同じものだという謎かけの「心」を詠っていると解すれば良かったのです。

 こういう掛詞の類には敏感な古注釈が気づいていなかったのは、「問ふ=飛ぶ」の掛詞の類例がないからかもしれません。

 一首の解釈は、

 「初雁は都にいる恋しい人の仲間なのだろうか。初雁が旅の空を飛んでいる声が悲しいように、旅の空にある私を見舞ってくれる声は悲しいのだ」

 くらいになるでしょう。スッキリしてます。多分、源氏研究の歴史800年の間誰も気づかなかった「正解」です。

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