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2023年1月21日 (土)

+フレイバーと師説再び~『源氏物語』に関する些細なこと20

 昨日、共テ後授業が終わりました。これで今年度の受験生の授業は来週の某W大対策を残すのみ。なんだか、スッキリ爽やかな気分です。

 昨日から我が家では、どういうわけかタンタライジングフレーバーという言葉が流行っています。もともと調味塩の入れ物に書いてあった英語なのですが、娘(仮称ケミ)が面白がっていろんなところに使っています。

 んで、このケーキにも。

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 Yのアップルケーキの新作です。紅茶入りなのだとか。これはかなり傑作で食欲をそそる香りがします。

 さて、それと関係なく「些細なこと」です。

 「空蝉」の巻冒頭。方違えで泊った紀伊守の家の人妻「空蝉」と逢瀬を持ってしまった源氏は、再び紀伊守の家を訪れ空蝉に迫ろうとしますが、察知した空蝉に渡殿へ逃げ出され、和歌の贈答のみで夜深く源氏が帰宅した直後の、空蝉の心情を語る一節です。

 「やがてつれなくてやみたまひなましかば、うからまし、しひていとほしき御ふるまひの絶えざらむもうたてあるべし、よきほどにて、かくて閉ぢめてん」

 この本文に対して、『新編日本古典文学全集』は、次のような現代語訳を付します。

 「もしこのまま、何事もなくそれきりになってしまうのだったら、恨めしいことだろうに、かといって、むりやり無体ななさり方がこれからも続くのであったら、これも情けないことだろう、いいかげんなところで、こうしてきまりをつけてしまおう」

 これのどこが「些細なこと」かというと、「やがて…やみたまひなましかば、うからまし」を「このまま何事もなく」と訳していることです。この「やがて…ましかば」は、反実仮想の仮定条件なのですから、「これから先、このまま現状が変わらなかったら」という訳にはならないはず。これは明らかに文法を無視した訳です。

 この「このまま」説は、『島津久基 源氏物語講話』『旧日本古典大系』『玉上琢弥 源氏物語評釈』『完訳日本の古典』『新日本古典文学大系』『岩波文庫』など近代の諸注釈に共通して見られるものです。例の文豪もこれに追従し、円地瀬戸内両訳も同様。

 近代の主な注釈書でこれに異を唱えるのは、唯一『新潮日本古典集成』の石田清水の両先生。頭注の「あのまま音沙汰なしでおやめになってしまったら、つらい思いをしていることだろう」は反実仮想の訳と思われます。こりゃ『集成』一人勝ちか。

 と思われたのですが、『旧日本古典文学全集』の頭注に、「そのまま。最初のときに逢ったきりで。」「『ましかば…まし』は事実に反することを仮定する。」を発見してしまいました。故A先生!。

 『旧全集』も現代語訳は「このまま」ですから、訳担当の故I先生と頭注担当の故A先生の間で意見が割れたのでしょう。昨年三月の「須磨」冒頭の時と同じ事情と推測されます。

 反実仮想を強調して訳すとこんな感じになります。

 「もし、あの最初の夜のまま何事もなく私との関わりを終えておしまいになったならば、情けなかっただろうに。でも、無理やりのお気の毒な御振舞が絶えないとしたら、それも嫌なことに違いない。適当なところでこのまま終らせてしまったら良い」

 この訳だと、空蝉は、「これから先、このまま源氏が言い寄って来なかったら恨めしい」と思ったのではなく、「最初のときに逢ったきりでそのまま何事もなかったら、情けなかったろうに、再び訪ねて来てくれて一夜だけの女にならずに済んだことは良かった」と思ったことになります。

 コレ、かなり違った読みになると思います。つまり、空蝉は、源氏二度目の訪問を、拒否しつつも内心ひそかに喜んでいたということになるのです。

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