祈りと「と」の兼ね合い~『源氏物語』に関する些細なこと22の上
久々に『源氏』です。
「明石」の巻冒頭近く、須磨巻末から続く嵐の中で供人達は源氏のために仏神に祈りを捧げます。小学館『新編日本古典文学全集』は本文を次のように作っています。
「もろ声に仏神を念じたてまつる。『帝王の深き宮に養はれたまひて、(中略)今何の報いにか、ここら横さまなる波風にはおぼほれたまはむ。天地ことわりたまへ。罪なくて罪に当たり、官位をとられ、家を離れ、境を去りて、明け暮れやすき空なく嘆きたまふに、かく悲しき目をさへ見、命尽きなんとするは、前の世の報いか、この世の犯しかと、神仏明らかにましまさば、この愁へやすめたまへ』と、御社の方に向きてさまざまの願を立てたまふ。」
これに対して、『新編全集』では、このような訳をつけています。
「いっせいに仏神をお祈り申し上げる。『君は帝王の奥深い宮に養われあそばして、(中略)いま何の報いによってかくもおびただしく非道な波風に君が沈淪していらっしゃるのでしょうか。天地の神々も理非を明らかにしてくだされ。罪もなくて罪科を問われ、官位を奪われ、家を離れ都を去って、明け暮れ安らぐことなくお嘆きでいらっしゃるのに、そのうえかくも悲しいめにあい、お命も尽きようとするのは、前世の報いか、今生に犯した罪のためか、神仏がご照覧あそばすものならば、このご悲嘆をおなくしくだされ』と、住吉の御社の方角に向かって、さまざまの願をお立てになる。」
この一節は、近代の諸注釈書で敬語の不一致を指摘されている箇所です。上記『新編全集』では頭注に、「後半部『かく悲しき目を』以下は源氏に対する敬語がなく、源氏自らの訴えのようにも読める」とあります。
この敬語の不一致に対して、『岩波古典大系』頭注は、「『前世の罪の応報か、現世に犯した罪によるものか』と(源氏の君は憂えなさる)」のように「と」の下に源氏の心情である旨の補いをして解決しようとします。
一方、『玉上琢彌源氏物語評釈』は、「この世の犯しかと」の部分で「と」のない本文を採用し、「祈りはまず光る源氏によって口火をきられている。その祈りの声がうちひしがれたおつきの者たちの勇気をふるいおこし、やがて神への合唱となる。つまり、ここには、誰が唱えたのであり、誰がその祈りをうけとめている、といった一々の細かい差別はないのではなかろうか。(中略)祈ったのは、光源氏とその従者たちという事になる」と祈りの言葉を主従の合唱として処理します。
『岩波文庫』も『玉上評釈』と同様の態度を取ります。『新潮古典集成』は、「この世の犯しかと」の本文を作りながら、「源氏もともに和した趣」という頭注を付し、この合唱説に与しています。
諸注釈の意見が割れているのですが、どれもスッキリとした説明ではないように思います。ワタシも解釈に窮したのですが、悩んだ末にもしかしたらという解決策を一つ思いつきました。長くなるので、続きは明日。
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