教科書NG~大人だましの和歌解釈
昨日今日とお休みです。 昨年もあった六月末の偽ゴールデンウィークです。それで、ちょっと真面目な古文のお話を書く気になりました。
新学習指導要領とやらに基づく新しい高校の教科書が校舎に置いてあり、先日、それを拝見してみて、ちょっと黙っていられなくなりました。
第一学習社さんの「言語文化」の教科書に、歌人俵万智さんの文章が掲載されていました。「古典の和歌を現代の言葉で書き換える」というタイトルで、古典の和歌を現代語訳する苦労が書かれています。
内容的にはナルホドそうでしょうねえと頷かされる点が多く含まれています。
「たった三十一文字の中に、いかに豊かな内容を盛り込もうかと、歌人たちは苦労してきた。…和歌は、散文とは比べものにならないほど、密度の濃い言葉の集約となっている。それを、わかりやすく読み解き、現代の散文で読みほぐしてゆけば、長くなるのは当然のことではある。」
これはよく解ります。我々も古代和歌を訳す際には、そういう苦労をしています。
しかし、ここから、筆者は現代歌人特有の妙な主張をしだします。
「が、その結果、もとの歌が持っていた韻律の美しさが失われてしまうことの、もったいなさ。…本来のリズムを、訳に生かせないものだろうか、と思った。リズムだって、作品のうちなのだから。」
それで、『伊勢物語』の中学生向け現代語訳の仕事の中でそれを実践してみたというのですが、それが、どうも、ねえ。
筆者は三首の歌をその例としてあげています。その第一首目。
「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」
「おなじ月おなじ春ではなくなっておなじ心の我だけがいる」
この和歌、十年ほど以前にこのブログで取り上げたことがあります。反語説疑問説が並び立って結論を見ない難解な名歌です。
ここでは、反語説疑問説云々は問わないことにします。また、元々の和歌が内包している「意味」の部分は、筆者本人か「省略せざるを得ない」と言っているので、ひとまずそれも良しとしましょう。
しかし、この訳で「韻律の美しさ」が守られていると本気でこの方は思っていらっしゃるのでしょうか。
これは明らかに韻律を守った訳ではなく、「音の数合わせ」です。
元歌の「月やあらぬ」「春や昔の春ならぬ」と対句的に韻を踏んで畳みかけて行く切迫感、それと対照されてポツンと置かれた「わが身ひとつは…」の崩れていく韻律の悲しみはありません。
そりゃ、この人の歌にだって、「おなじ月おなじ春」「おなじ心」と繰り返すリズムはあります。でも、それって元歌のリズムを守ったのではなく、この人の作り出したリズムでしょ。よくある万智ちゃんリズムです。簡単に言えば、この人の創作です。
要は、この人の「訳」は、伊勢物語の名歌にインスパイアされた現代歌人の創作です。訳なんかではありません。
しかし、この「訳」が中学生対象の仕事の中で行われている分には、ワタシは文句を言いません。俵さんの短歌が、『伊勢物語』という中学生には取っつきにくい古典に入門するための親しみやすい翻案作品として扱われている分には、何ら文句を言う筋合いではありません。
また、これが純粋に現代短歌の創作のページだとしたら、それもまた、文句を言う筋合いではありません。
しかし、この文章には何度も「現代語訳」と書いてあります。古代和歌の現代語訳として、この人の「訳」は扱われているわけです。
コレは高校向けの教科書で、高校生は古典文法を学んでいるはずなのに。古典文法に従って訳して行けば、この筆者の放棄した「意味」だって十全に理解できるはずなのに。
この教科書の一番困る事は、筆者がこの文章を、「読者や、研究者の先生方から評判がとてもよく、努力が報われた思いだった。」と自画自賛で結び、それを受けるかのように、「活動の手引き」とやらで、「筆者の作例を参考にしながら、自分のイメージと言葉で歌を書き換えて発表し合おう」などと、この作者の「訳」をなぞるように指導している点です。
まあ、もちろん、実際に高校生の皆さんが俵さんの「訳」をなぞって自由な「訳」を創作するようになるとは、さすがのワタシも思いません。だって、この俵流の「音数合わせ」は、それなりに高度な現代語遊びであり、簡単に真似できるものではないでしょうから。
だから、高校生のことを心配しているのではありません。そうではなく、心配の対象は大人の高校の先生方です。
実際に授業される高校の先生方が、「現代語訳」と「創作」をしっかり区別して授業してくれる方ばかりなら良いのですが…、そうはなりませんよねえ、きっと。
高校の教室で、この「訳」が古代和歌の理想的な現代語訳の一つとして語られるようなことにならなきゃ良いんですがね。
それにしても、この「訳」を称賛した「研究者の先生方」ってのは、どこにいやがる〇鹿野郎なんだかね。
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コメント
ご存じかどうか、80年代は今よりももっと多くの出版社が教科書を作っていました。角川書店(あの頃の)、右文書院、尚学図書など渋めの出版社も。このDは傍流、ちょっとどうなのかなあとは思っていました。
はい、やたら親切なのです。とくに指導書が。指導計画一覧、授業の進め方、板書例、品詞分解、現代語訳、質疑応答例、小テスト、定期考査などほんとうに丁寧に作られています。
しかしですねえ、こういうのを馬鹿にする教員がどんどん少なくなりました。いや逆に重宝するようになる教員が多くなり、直近で勤めた学校2校はともにDでした。理由は上記の通り。私自身も指導書を書いた経験があり、つい深く読む嫌いがあるのですが、Dに関してはしばしば明らかな間違いを発見します。
ちなみに日比谷高校のH先生も、Dは以上の理由で嫌悪しています。
ブラック職場といわれるようになり、志願者が減少しているというのは、こういうところにもあらわれてくるのです。ほんと若い先生、しっかり勉強しろといいたくなります。
投稿: ニラ爺 | 2023年6月30日 (金) 13時54分
ナルホド。そういう出版社さんなんですね。うーーむ。
こりゃ、ますます心配ですね。
投稿: mumyo | 2023年7月 1日 (土) 07時27分