ほととぎすやら呼子鳥やら~『源氏物語』に関する些細なこと23
久々に『源氏』です。
「明石」巻の中ほど、明石入道に娘とのことをほのめかされた源氏が、入道の娘、明石の君に懸想文を送る場面です。
「えならずひきつくろひて、
『をちこちも知らぬ雲居にながめわびかすめし宿の梢をぞとふ
思ふには』とばかりやありけん」
この本文に対して、『小学館 新編日本古典文学全集』は次のような訳文を付します。
「えも言はれず念入りに趣向をととのえて、
『どちらとも分からない旅の空に目をやり、物思いに沈んでは、ほのかにお噂にうかがった宿の梢を霞のかなたにおたずねするのです
あなたをお慕いする心に、こらえきれなくなりました』とぐらいのことがしたためられてあっただろうか」
この時、季節は初夏のはずなので、「霞のかなた」は明らかな錯誤ですが、それ以外にもいくつか理解しにくい点があります。求愛の歌のはずなのに、何故、「をちこちも知らぬ雲居」と歌い出すのか、何故、「宿の梢をとふ」のか。
もともと、この歌は、懸想文としては少し変わった歌と考えられているようで、『玉上琢彌 源氏物語評釈』でも「たいへんおとなしい懸想文である」などと評されたり、「気の無いなげやりなうた」(「うたの挫折」藤井貞和)と貶められたりする歌です。
「光源氏を鳥に比したものとすれば一層理解しやすい」(「光源氏の『すき』と『うた』」)と、自分を鳥になずらえた歌という考えを打ち出したのは恐らく小町谷照彦学芸大名誉教授あたりで、岩波書店の新日本古典文学全集や岩波文庫もそれを受け継いでいます。
しかし、何故、鳥なんでしょう。
この日は四月の夕月夜ですから、多分、四月上旬です。少し時期が早いのですが、時鳥はあり得なくありません。時鳥は恋慕の情を搔き立てるものとして「時鳥初声聞けばあぢきなく主さだまらぬ恋せらるはた」(『古今集』 夏 一四三)のようにも詠まれるので、適当な古歌でもあれば、それで決定なのですが、その古歌が見当たらず、古注釈にも引き歌の指摘がありません。
うーーむ。
しかし、時鳥と限らなければあります。「をちこちも知らぬ」には、「をちこちのたづきも知らぬ山中におぼつかなくも呼子鳥かな」(『古今集』春上 二九)がピッタリ。
どちらともわからない山中で頼りなく鳴く呼子鳥に、現在の自分の旅の憂愁を重ね、鳥が宿の梢をかすめ飛ぶように、あなたの家を訪れるのですと詠っていると考えれば、まあ、わからなくもありません。
でも、何故「呼子鳥」なんだか。
それに、相変わらず「気の無いなげやり」だし。
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