感謝に至る哀悼
月曜火曜は二学期第十週目でした。ここが過ぎると終わりが見えてきます。
同僚のFBでちょっと気になる話が出ていたので、火曜の立川でその教科の若い人に聞いてみました。「つかぬことを伺いますが…」彼は怒ったように、ある女性講師の名前を口にしました。「えっ?!」
ちょっと言葉を続けられませんでした。その人は、その手の話からは最も遠い所にいるイメージの人だったから。
昨年度まではよく講師室で会って話もしました。豪放磊落そうな外見で明るい人でしたが、意外と繊細で優しい面のある人でした。エネルギッシュでパワフルな彼女は、こんなことが起こる人じゃなかったはずなんですが…。
そもそもワタシより20年程は若そうだったし。
この仕事についていると年下の訃報にしばしば出会います。「老少不定」では片付けられないくらい出会います。こんな人やあんな人や。
多分、一人一人の方の事情は異なっているのでしょうが、この仕事がどうやらあまり健康に良くなさそうな仕事であることは判ります。
忙しい時は人間の限界まで忙しくなり、暇になると失業に近くなること。簡単に馘になる恐怖とそのための様々なストレス。拘束するものが授業時間だけであるため、時間的に自由が利き過ぎ生活のリズムが作れないこと。夜の仕事が多く、食事と睡眠の時間が不規則になりがちなこと。
などなど、非健康的な要素を挙げて行くとキリがありません。
ワタシもある時期までは、これらの非健康的要素に逆らえず、非健康的生活を続けていたのですが…。
同居人が出来た日、非健康的要素のかなりの部分が解消しました。長生きしたい理由もあの日に生まれたし。
哀悼は哀悼として、そこから感謝には至らなきゃならないよなー、きっと。
Yが現れなかったら、今頃、どちら側にいたか…、わかんないからね。
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