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2024年6月12日 (水)

「ことわりなれど」の行く先~『源氏物語』に関する些細なこと25

 本当に久々に「些細なこと」。『源氏物語』の重箱の隅をつついてみました。

 「澪標」巻の巻末近く、六条御息所亡き後、娘の前斎宮と挽歌を贈答した源氏が感慨を述べる箇所です。この時、源氏は六条御息所から娘に手を出さないよう遺言で釘を刺されています。

 「今は心にかけてともかくも聞こえ寄りぬべきぞかし、と思すには、例のひき返し、いとほしくこそ、故御息所のいとうしろめたげに心おきたまひしを、ことわりなれど、世の中の人もさやうに思ひよりぬべきことなるを、ひき違へ心清くてあつかひきこえむ」

 この本文に対して、小学館『新編日本古典文学全集』では次のような訳をつけます。

 「今は心にかけてなんなりとも言い寄ることができるのだ、とお思いになるにつけても、しかし一方では、また例によって思い返し、『それもおいたわしいことだ。亡き御息所がいかにも気がかりな面持ちでお心を残してゆかれたのだから。その心配ももっともなことだし、世間の人もこの自分に対してやはり同じような邪推をしかねないことでもある、ここはひとつ翻して潔白な心でお世話申しあげよう」

 この訳文のうちの「ことわりなれど」に対応する「その心配ももっともなことだし」が今回の重箱の隅です。

 本文は「なれど」と逆接の接続助詞「ど」を用いているのに、訳文は二つのものを並列させる接続助詞「し」で処理されています。これは、つまり、亡き御息所の心配を「ことわり」と当然視する表現と、世間の人が御息所と同じ邪推をするという表現が逆の内容ではなく、むしろ類似内容であるところから、そのように処理せざるを得ないというわけです。

 現代の諸注釈では、『小学館 完訳日本の古典』はまったく『新編全集』と同様。『岩波書店 日本古典文学大系』は「ことわりなれど」に注をつけていません。

 一方、『玉上琢弥源氏物語評釈』『新潮社 日本古典集成』『小学館 日本古典文学全集』『岩波書店 新日本古典文学大系』『岩波文庫』は「無理もないが」「道理であるが」と軽い逆接や前提を表す「が」で逃げます。

 しかし、まず、「ど」は類似の表現にはなりません。一方、前提を表す「が」の処理は前後が類似内容過ぎてやや違和感があります。『小学館旧全集』が「が」で処理していたものを『完訳』になった時に「し」と直したのは、完訳から参加なさった故S先生も、前提の「が」の処理に違和感を感じていたのではないかと思われます。

 そもそも、『小学館 旧全集』頭注で、「『ことわりなれど』は、上の内容への注記的な評言であろうが、落ち着きのわるい挿入句である」とあるのは、この「ど」に、頭注をつけた故A先生が「し」にも「が」にも疑問を抱かれたからでしょう。

 『源氏物語大成』によれば、この部分に本文の異同はありません。

 このような少し無理めの解釈は、「ことわりなれど」の先、「世の中の人も…」の解釈に原因があると予想されます。この部分の解釈は実は古注釈に起源があり、『湖月抄』頭注に

 「御息所の遺言の旨はことわりなれど、今は斎宮も源のままなれば、世の中の人も定めて源の物にし給ふべしと思いよるべき事なるを」

とあるのを現代の諸注釈も踏襲したものと思われます。

 この問題、実は簡単に解決するものと思われます。「世の中の人もさやうに思ひよりぬべきこと」という本文の「思ひよる」を、「思い当たる・気がつく」の意で取ってしまったことに問題があるのです。

 古語「思ひよる」には、「思い当たる・気がつく」の意と「好意を抱く・心ひかれる・求愛する」の意があります。「世の中の人も思いあたる」とするから問題が起こるのであって、「世の中の人も心ひかれ求愛する」と取ってしまえば良いのです。

 つまりこういうことです。「世の中の人もさやうに」の「さやう」は、引用文冒頭源氏の心内語「今は心かけてもともかくも聞こえ寄りぬべき」を受けていたと取ればよいのです。自分の愛人が遺した二十歳の美貌の娘には、源氏が情欲を突き動かされかけたように、世間一般の人もそそられるはずだというわけです。

 源氏は、遺された斎宮に対して、思いのままに言い寄ることができると考えそうになるのですが、思い返して、それは気の毒だと考えます。「御息所が心配して遺言していったことは、それは心配するのが道理のことであるけれど、世間一般の人だってこういう仲であれば自分のように『思いのままに言い寄ることができる』と考えて当然だ。だが、しかし、自分は違う。逆に斎宮に邪念をもたずお世話しよう」と決意した源氏は、この娘を入内させて外戚政治の道を歩むことになる。

 そういう話だと取れば良いのです。訳文は、次のようになります。

「今は思い通りにどのようにも言い寄り申し上げることができるのだよ」とお思いになるにつけて、例によって思い返して、「それもお気の毒なことだ。故御息所がそのことをたいそう心配そうに気に掛けていらっしゃったが、それも道理であるけれど、このような仲では世の中の普通の人でもそのように懸想じみた心を抱いてしまうのは当然のことである、だが、しかし、自分はそれとは逆に邪念ない有様でお世話し申し上げよう」

 これで良いんじゃないでしょうか。「ことわりなれど」に疑念を抱かれた故A先生、これでどうでしょう。

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