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2024年9月19日 (木)

もどってしまう姫君~『源氏物語』に関する些細なこと30

 我が家の姫君(仮称ケミ)が元に戻ってしまいました。

 先々週の金土とおそらくマイコプラズマ肺炎で40℃の熱を出し、日曜に治して、月曜から登校。先週末には陸上競技会で1500mを走るほどに快復していたのに…。

 昨日、学校から帰って来て、「咳が出る」。熱を測ってみると38℃台でした。イヤハヤ、逆戻りかよ。

 と思ったのですが、今日、学校を休んで病院に行ったら、「喉の風邪ですねー」とのこと。まあ、それなら一安心か。

 んで、強引なんですが、戻ってしまう姫君というと『源氏』です。

 「末摘花」巻。常陸宮の姫君は、歌の詠めない人として登場します。光源氏が最初に求愛の歌を詠みかけてくる場面では、ご本人が歌を詠めずにぐずぐずしているので、乳母子の侍従という女房が代わって詠んでしまいます。後朝の歌に対する返歌も侍従の代作です。

 ところが、年末に光源氏の正月の衣装を、源氏の君の妻として(ご本人だけは妻だと思っているというところがまた、失笑を買うのですが)送って来る場面で、古めかしい紅色の直衣につけた歌がこれです。

 「からころも君が心のつらければたもとはかくぞそぼちつつのみ」

 (あなた様の冷たいお心が恨めしく思われますので、私の袂はこんなにも濡れどおしでございます)

 本文と訳は小学館『新編日本古典文学全集』です。

 この歌は、光源氏によって、

 「さても、あさましの口つきや、これこそは手づからの御事のかぎりなめれ」

 (それにしてもあきれた詠みぶりだ。これこそたしかにご自身で精いっぱい詠まれたのだろう)

 と評されているところから、明らかに下手な歌なのです。当時の読者なら口にしただけで噴飯モノの下手さ加減だと推測されます。しかも、紫式部の、人物の個性に従って歌を詠み分けるという特徴から考えて、末摘花的な下手さでなければなりません。

 ところが、それが我々現代人にはどうもよく分からないんです。

 新編日本古典文学全集頭注には、「『からごろも』は、「着る」にかかる枕詞だが、ここは無理に『きみ』の『き』にかける」とあり、少し無理矢理な枕詞だという指摘があります。岩波文庫等にも同様な指摘があり、こういう時にあてになる『玉上琢彌 源氏物語評釈』も、同様のことしか書いてありません。

 片桐洋一氏の『歌枕歌ことば辞典』には、

 「『からころも』という歌語を用いさえすれば一応の和歌になるというわけで、『源氏物語』において三枚目的役割をになわせられている末摘花は、光源氏に歌を送る場合、いつも『からころも』という語をよみ込んで(以下略)」

とあって、和歌の下手な者が用いて一応和歌の体裁を整える用語と片桐氏はお考えになっているようです。

 しかし、それだけでは末摘花的ではありません。

 試みに「からころも」を『国歌大観勅撰集編』で調べてみると、八代集に「からころも」が用いられている歌は60例を数えますが、そのうち半数は古今集後撰集に集中しています。とりわけ後撰集には20例も見られ、この言葉が後撰集時代に流行った歌語であることが判ります。紫式部にとっては、一時代前の流行語というわけです。

 しかも、この歌語には「衣」の美称として用いられている場合と枕詞として機能している場合があり、千載集新古今集あたりだと、ほとんど「衣」の美称です。ところが、後撰集の20例のうち10例前後は純然たる枕詞です。

 『和歌大辞典』(明治書院)では、「からころも」という枕詞について、六百番歌合の判詞を引いて「その陳腐さが嫌われるに至った」とあります。少なくとも平安の末には、陳腐で古臭い枕詞と考えられていたようです。

 末摘花は、最初から古めかしい言葉遣いの姫君として登場しました。まさにこの枕詞こそが末摘花的なのではないでしょうか。一時代前にもどったような歌だったので、失笑を買ったと。

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コメント

いつも興味深く拝読させて頂いてます。
今回も知的刺激に満ちた御考察でした。
『和歌大辞典』は小生未読なのですが、
新日本古典文学大系の『六百番歌合』
では季経の歌が〈・・・「唐衣ひとへ」
などいふ事は事古りにたる上に・・・〉
という判詞になっており、「言い古さ
れている」とされたのは「唐衣」では
なく「唐衣ひとへ」と読めますけど、
この件を指してるのでしょうか?ただ、
同じ『六百番歌合』で定家が「唐衣」
を〈「裾」の枕詞〉として用いた歌も
ありますが、問題にされず、「勝」と。

投稿: middrinn | 2024年9月21日 (土) 09時37分

 書き込みありがとうごさいます。

 『和歌大辞典』の当該箇所の記述を正確に写します。

「この枕詞は平安時代以降盛んに用いられるようになり、新古今集時代までの現存用例は各時期を通じて一五四例を数える。その結果『唐衣ひとへなどいふ事はことふりにたる』『袖より鴫のといはんために裾野の庵といはんとても、唐衣求めたらん故なくや』(六百番歌合の判詞)とむしろその陳腐さが嫌われるに至った」
(滝沢貞夫)

 このブログでの『和歌大辞典』の引用は、やや滝沢さんの結論に無批判に飛びついた感があり、その点では反省しています。

 しかし、ワタシは和歌の専門家ではなく、逃げ口上になるかもしれませんが、学者でさえありませんので、どうぞその点は御理解ください。

 あくまで、『源氏』の読みに関して、素人が立てた仮説の一つとしてお読みいただけるとありがたいです。

投稿: mumyo | 2024年9月21日 (土) 10時12分

『和歌大辞典』の当該記述を書き写して頂き、大変恐縮
恐惶です。心より御礼申し上げます。前掲『六百番歌合』
では、藤原季経の他の歌にも「・・・などいへる秀句、
事古りたるべし。」(歌番号41)、「・・・下句、古り
て侍にや。」(同925)、「・・・左歌、古めかし。」
(同979)といった判詞が見られ、六条家の歌に対する
御子左家の常套句なのかなと素人ゆえ邪推してました。
なお、前掲書は「・・・故なくやは。」となってるので、
「問題にされず」と書いたのですが、とまれ、今後とも
玉稿を愉しみにしております。取り急ぎ、御礼まで。

投稿: middrinn | 2024年9月21日 (土) 16時36分

 なるほど、新大系の『六百番歌合』は「なくやは」なのですね。
 一応『和歌大辞典』の記述を確認しましたが確かに「なくや」とあります。

 どうなんでしょうかねえ。

投稿: mumyo | 2024年9月21日 (土) 18時19分

末摘花の歌の「唐衣」についての御考察にインスパイアされ、紫式部の同時代の和泉式部も「唐衣」を枕詞として用いた歌を複数詠んでおり、その「古歌の知識や詠作の理論」から大した歌人ではないとする『紫式部日記』での酷評に繋がったのかもなどと愚考したりしました(^^;) しかし、同時代の優れた歌人である藤原道信も枕詞として「唐衣」を用いた歌を詠んでおり(『新勅撰集』入集)、更に藤原道長と彰子が「唐衣」を枕詞として用いた贈答歌(『栄花物語』から『新古今集』入集)を詠んでいるのを見ると、玉稿の「一時代前にもどったような歌だったので、失笑を買った」という点は成り立たないかと(^^;)

投稿: middrinn | 2025年8月 6日 (水) 19時00分

 御指摘ありがとうごさいます。しかし、ちと面倒くさいお話ですね。

 おっしゃっていることは分かりましたが、だからといって、「一時代前」に流行った枕詞だということは、middrinnさん論法では否定できないのも確かでしょう。実際、用いられた数が違うんですから。

 問題は、それが失笑を買うほど時代錯誤なのかどうかです。

 和泉式部の用いた例と道信の用いた例、それに道長彰子の贈答歌が具体的にどのような読みぶりで、どう評価されたかということが問題なのだと思います。

 このうち道長彰子の例は、あまり考慮しなくても良いかと思います。歌人として評価された人ではないので。古風な読みぶりをしても特に問題はありません。むしろ、古風なお決まりの表現を使うおっとりとした歌が似合う人達なんじゃないでしょうか。

 また、道信にたまたま一首あっても、それはまあ、それでという気がします。例えば、昭和歌謡の流行り詞を現代のJ-Popで使っても、「かえって斬新で良いんじゃね」と評価される可能性があるということです。それが一首だけであり、正しく使われていればですが。
 
 末摘花の場合、一時代前の言葉を無理気味に使ったというところが失笑を買ったと考えるべきかもしれません。

 しかし、和泉式部の「複数」は少し気になります。

 そのことが紫式部の和泉歌評価につながるというお話は、うーーん、わかんないですね。難しいです。

 多分、こんなネットの議論ではなく、ちゃんとした国文学の学者さんの論攷を待つべきテーマなのかな、と思いました。

投稿: mumyo | 2025年8月 6日 (水) 21時29分

「ちと面倒くさい」コメで申し訳ないですm(__)m 玉稿の論旨は、各注釈書は末摘花が「唐衣」を「少し無理矢理な枕詞」として用いた点を指摘しているが、「それだけでは」なく、当時は「唐衣」を枕詞として用いて詠んだ歌自体が「一時代前にもどったような歌だったので、失笑を買った」のだと読み解くべしということですよね(^^;) その後の方の論点について、舌足らずな拙文ゆえ意が伝わらなかったようですが、自らが仕えて『源氏物語』の読者でもある藤原道長と彰子(ともに一首歌人ではない勅撰歌人)が「唐衣」を枕詞として用いた贈答歌を詠んでいるのに紫式部が「一時代前にもどったような歌だったので、失笑を買った」と読めるような叙述をするとは思えませんし(なお、返信コメントはダブルスタンダードかと)、そもそも紫式部の時代に「唐衣」を枕詞として用いた詠歌が「一時代前にもどったような歌」であるとは考えにくいことをご理解いただくために一例として一条朝を代表する歌人である和泉式部と藤原道信の名を挙げたのが拙コメです(どうやら歌人に関してはお詳しくないようで、紫式部の歌人としての評価は藤原俊成も「紫式部、歌詠みの程よりも物書く程は殊勝也。」と)(^^;) 勅撰集は撰者によるところが大なので、必ずしも歌壇の「流行」=「実際、用いられた数」を反映してるわけではないかと(^^;) 私家集や歌合その他の暗数が存在することは明白なのに各勅撰集の用例の数を以て「唐衣」は「後撰集時代に流行った歌語であることが判ります。紫式部にとっては、一時代前の流行語というわけです。」と断定するのは安直(失礼!m(__)m)かつ早計かと(^^;) 「実際、用いられた数が違うんですから。」とおっしゃいますが、手元の私家集等の注釈書で紫式部の同時代歌人の詠歌を調べると、「唐衣」を用いた歌は、和泉式部5首(枕詞3)、藤原道信1首(枕詞1)、藤原長能1首(枕詞1)、源道済2首(枕詞2)、清少納言1首(枕詞1*贈答歌で他人の詠)、藤原定頼1首(枕詞1)、源兼澄2首(枕詞0)、藤原道長1首(枕詞1)、彰子1首(枕詞1)の計15首(枕詞として用いられたものは11首)でした(^^;) これまた図書館に通って悉皆調査をしたわけでもなく安直なものですけど、「唐衣」を用いた歌は9首入集の『拾遺集』も、『古今集』時代の紀貫之の3首やよみ人しらずで「天暦御時」詞書にある1首を「後撰集時代」のものとして除くと5首(枕詞3首)となりますが、この私家集等のを合わせると『拾遺集』時代は少なくとも20首(枕詞として用いられたものは14首)で「後撰集時代」に引けを取らないかと(^^;)モチ「後撰集時代」の私家集等を調べれば更に増えるでしょうけど(例えば、藤原伊尹の家集に枕詞として用いた歌が1首あり、『新古今集』に入集してます)、それは『拾遺集』時代も同様かと(^^;) 『後撰和歌集』に「唐衣」を用いた歌は正確には22首ありますが、詠歌時期も分からぬよみ人しらずのが12首(^^;) 紀貫之の3首、閑院左大臣藤原冬嗣の1首を更に除くと、「後撰集時代」の歌は源公忠と女の贈答歌、右近、藤原雅正、桂内親王、源巨城の各1首の計6首(^^;) 桂内親王と源巨城は1首歌人ですし、有名な歌人は源公忠、右近、藤原雅正だけで、先に列挙した『拾遺集』時代の歌人の豪華な顔ぶれと比較すると、「唐衣」が「後撰集時代に流行った歌語」で『拾遺集』時代に枕詞として用いた歌が「一時代前にもどったような歌」とはますます考えにくいです(^^;) なお、末摘花の当該歌が「唐衣」を「少し無理矢理な枕詞」として用いた点に関しても気になることはありますが、主たるご専門が物語か和歌かで国文学者も違うんだなぁと(@_@;)

投稿: middrinn | 2025年8月 8日 (金) 08時54分

 すばらしい。

 詳細な調査をありがとうごさいます。
御指摘の通り、ワタシ、歌壇に詳しくありません。そりゃ、当たり前で、ワタシの大学院時代の専門はつくり物語でして、しかも、研究の場を離れて三十数年の予備校屋ですから。

 枕詞「唐衣」に関する調査は、もう少し視野を広げて綿密にやらないと学術論文が書けないだろうなと思います。でも、この記事は、学術論文ではないので、まあ、半分不確かな与太話だと思ってください。

 ただ一点、反論を加えると、

>自らが仕えて『源氏物語』の読者でもある藤原道長と彰子(ともに一首歌人ではない勅撰歌人)が「唐衣」を枕詞として用いた贈答歌を詠んでいるのに紫式部が「一時代前にもどったような歌だったので、失笑を買った」と読めるような叙述をするとは思えませんし

 この部分には少し問題があります。というのは、末摘花執筆時には、まだ彰子の所に出仕していない可能性が高いこと。
当然、まだ「読者」として想定していないと思われます。
 しかも、致命的なのは、道長の詠歌は出家後だということ。寛仁三年(1019)のことですからね。末摘花執筆から十数年後でしょうね。紫式部はもうお亡くなりになっている可能性があります。
 先後関係は調べていなかったようですね。紫式部は道長歌を意識しようがないんです。

 ただし、道長彰子の贈答は「唐衣」が時代錯誤かという考証の材料にはなります。ワタシのコメントはそういう意図です。

 「ダブルスタンダード」なのかどうかは、お考え直し下さい。

投稿: mumyo | 2025年8月 8日 (金) 09時55分

 もう一つ、「唐衣」が時代錯誤であるかもしれないと考える材料を提供しておくと、この「末摘花」巻の後、末摘花はことあるごとに枕詞「唐衣」を多用し、最後には「行幸」巻で、源氏に「唐衣また唐衣も唐衣かへすがへすも唐衣なる」という嘲弄の歌を浴びせられるのですが、この物語の流れも、枕詞「唐衣」が時代錯誤であると仮定すると、大変都合が良いのです。

 お調べになった和歌に関して、さらに末摘花執筆との先後関係を調べて、末摘花執筆時(多分、2001~2005頃ではないかと思われます)の頃には枕詞「唐衣」の使用が少ないと論証できたら、大変な学術論文が出来るでしょうね。

 当然、ワタシの守備範囲ではありませんけどね。

投稿: mumyo | 2025年8月 8日 (金) 10時37分

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