2021年10月21日 (木)

古文未修者へのアドバイス

 昨日、二学期第八週目が始まりました。ここからは終わりまで速い…はずなんだけど、今年はどうだかね。

 季節も急激に秋が深まってきた感じです。朝晩はとても涼しいし、我が家は、一番取りにくい野沢の宿の予約も取れて、いよいよ、シーズンイン間近です!

 まあ、もうちょっと仕事なんだが…。~o~;;

 昨日は、夜、高2の授業があり、授業後に二学期から受講している真面目な生徒さんから質問がありました。

 某有名女子大学の付属校に通っているのだが、今までほとんど古文の勉強をしていなかったので、これからどうしたら良いでしょうとのこと。

 どうも、学校全体が某有名大学進学希望者ばかりで、そういうカリキュラムになっている中で、彼女だけ他の大学へ進学したくなったらしいのです。

 なるほど、付属校に進学すると途中で他大学受験する気になった時にそういう難しさがあるのか、と一瞬小学生のパパ思考になってしまいました。~o~;;

 閑話休題。こういう古文未修者にやってほしいことは、

 ⑴まず、テキストの文章から動詞を抜き出し、サブテキストの「動詞の活用の見分け方」のページを参考にして、動詞の活用の種類とそこでの活用形を割り出す練習をすること。これは、次の助動詞の識別につなげるため。

 ⑵次に、同じ文章から助動詞を抜き出し、その終止形と活用形とそこでの意味を割り出す練習をすること。この時、⑴で割り出した動詞の活用形とサブテキストの「助動詞の接続」のページを確認しながら作業を進めること。

 ⑶助動詞さえ識別できるようになれば、辞書を引いて自力で古文を訳せるはず。訳にチャレンジしてみよう。訳したものは授業で確認。

 ⑷上記⑴~⑶を他の文章でも繰り返しながら、同時に、単語集等を利用して語彙を増やしていくこと。

 こういう筋でアドバイスしました。

 まあ、ごくごく普通の古文の学習です。大事なのは、この「ごくごく普通」を信じて根気強く繰り返すこと。

 徒に変な参考書に手を出さず、地味な「ごくごく普通」をあと半年貫き通せれば、来年の春には古文既習の普通の受験生に追いついているはずです。

 その後も、もちろん平坦な道ではありませんが、本人の覚悟次第でしょう。

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2021年10月14日 (木)

「受験生へのアドバイス」独立

 新聞を読んでいたら、コロナで不登校の生徒さんが増えているという記事が目に留まりました。

 ウチの予備校などでも、クラスによって、用心のために自宅でライブ配信を見ている子がポツリポツリといます。

 正直言って、受験生に自宅学習はおススメしません。精神的に辛すぎるから。

 でも、まあ、こういうご時世だと仕方ない場合もあるよなぁ。

 このブログでも何かできないかしらんと考えて、今までの記事から、受験生へのアドバイスになりそうな記事をカテゴリーとして独立させることにしました。何かの事情で学校に登校できない方の役に立つかしらんと思ったのですが…。

 でも、第五波の収まりかけたこの時期になって、遅いかしらん。~o~;;;

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2021年8月 1日 (日)

患者が増えているワケ

 昨日から夕方の一講座だけの天国期間です。

 講習で扱っている文章で、ちょっと気になることがありました。

 実は、以前取り上げたことのある『土佐日記』一月七日の条。この時取り上げた部分の少し後です。

 貫之一行を訪ねて来た地元の歌自慢のハチャメチャな歌に対して、大人達は黙々と飲み食いして返歌をしないという仕打ちでこの男をいびり出すのですが、その空気を察することの出来ない子供が返歌をしようとする場面。

 「『立ちぬる人を待ちて詠まむ』とて求めけるを(『席を立ってしまった人を待って詠もう』「とて」捜したが)」

 この「とて」の部分を、ウチのテキストで「と言うので」と訳してあるので、ヤレヤレと思ってしまいました。

 「とて」は、引用を受ける格助詞「と」と接続助詞「て」が一語化したもので、会話文や心内語を受けて「と言って・と思って」の意味になるのが一般的です。原因理由の用法もありますが、このように明らかに会話文を受けている場合、「と言って」と訳すのが普通です。

 なんだってこんな基本的な誤訳を…と思ったら、どうやら現代の諸注釈がみんな「と言うので」なんですね。

 現代の諸注釈というのは、『土佐日記全注釈』(萩谷朴著 1967)、『小学館古典全集』(村松誠一注・訳 1973)、『講談社学術文庫』(品川和子注・訳 1983)、『小学館新編古典全集』(菊池靖彦注・訳 1995)のこと。(新潮社の『古典文学集成』と岩波書店の『新日本古典文学大系』はこの部分に対して全くノーコメントです)

 ここを「と言うので」と訳してしまうと、次の「捜したが」の主体を誤る原因になります。「と言うので捜したが」だと大人達が捜したように読めてしまいますが、ここは、返歌をしようとしている子供が捜しに行かなければならないはずです。だって、大人達は自分達でいびり出した男が、もうすでに帰ったことを知っているから。

 前回の時と同様、多分萩谷先生の『全注釈』が元凶なんだろうけど、こういう誤訳を生徒がマネすると、接続助詞「て」の感覚を利用できなくなり、「主語判らない病」を引き起こす原因になっちゃうので、困るんですよねー。

 生徒さんには、「『て』は『て』と訳せ!そうしないと主語判らない病にかかっちゃうゾ」と力説しておきました。

 子供が「主語判らない病」の患者になっちゃうのって、大人の側にも原因があるんだよなぁー。

 と思いつつ、校舎から出て駅まで歩く間に、反乱を起こした居酒屋さん風俗さんとそれに乗っかっちゃったゆるーい人達が、あっちにもこっちにも…。

 東京は昨日4000人超え、全国で一万の大台に乗ったそうですが、増えるワケだよ。

 こっちは誰が原因作ったんだか。~o~;;;

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2021年7月 9日 (金)

ハートでも本能でもないもの

 仙台から帰って来て、久々にノンビリさせてもらっています。

 仙台で、久々にこういう質問を受けました。

 「自分は古文が苦手だ。古文は英語みたいなものだと思っている。主語などを把握するのに、いろんな法則を身に着けないといけないので、テキスト以外の古文をたくさん読みたいのだが、何を読んだら良いだろうか」

 おやおや、主語判らない病の患者さんか。仕方なく、こういう説明をしてあげて、「法則を覚えてそれを使おうとすると、古文を得意教科には出来ない。古文を英語みたいなものと考えずに、日本語として読みなさい。法則ではなく、自分の中の現代語の感覚を利用することを覚えない限り、古文を得意教科には出来ないよ」とアドバイスしてあげました。

 自分の中にあるはずの現代日本語の感覚を利用せずに、「英語みたいなもの」と思って法則で読むというのは、どこで教わったことなんですかねえ。困ったモンだ。

 この人のやろうとしたことというのは、人間が自然に行っている「歩く」という動作を、全て理論化してそれに従って歩けるようになろうとするようなものです。つまり、歩けるロボットを作る方法論で自分を歩かせようとしているってこと。

 難しいよ、ソレ。~o~;;

 それで思い出したのですが、昔、ウチの古文の人気女性講師が、古文を「ハートで読む」と言い出したことがあります。

 いやー、ハートじゃ読めないよなあ、と実は本人以外のみんなが思っていました。~o~;;

 また、同じくウチの昔の大先生T師が、「本能で読め」とおっしゃっているのを聞いたことがあります。これは、多分、上記の「現代日本語の感覚を利用」というのと同じことをおっしゃったんだと思います。

 しかし、言葉の感覚は生まれ持った物じゃないからなあ。

 閑話休題。上記の生徒さんが、法則でもハートでも本能でもないもので、普通に読んでくれるようになると良いのですが…。

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2021年1月 9日 (土)

蘇りパパのアドバイス

 昨日の夕方、共通テスト対策の演習授業がありました。

 内容的にはキチンとしたことをしゃべれたつもりですが、兎に角、声が出ません。声を張り上げようとすると、咳き込んでしまいそうで、時節柄それが恐ろしくて、ワタシとしては異常なくらい小さなボソボソ声でしゃべってしまいました。

 自分では何かに感染してこうなったのではないと確信しているのですが、やはり教壇で咳き込むのは、ちょっと出来ませんからねえ。

 内容的には、共通テストに向けて良いアドバイスが出来たと思います。詳しくはまだ営業機密なので言えませんが、もしも今この記事を受験生が見ていたら一言だけアドバイスを送りましょう。

 共通テストの最大のキモは「時間」です。センター時代と違って過去問で時間の使い方を練習できないので、どうしてもそこで大失点する人が出て来ます。その点をあらかじめ考えておくと良いでしょう。

 授業でもその点を中心にいろいろ細々と話しました。ボソボソ声で。

 喉の痛みの方は今朝の朝食を取る頃まで続き、朝食時には愚妻Yに心配されるくらい元気が出なかったのですが、徐々に回復して、今はほとんど大丈夫。蘇った気分です。まあ、授業やらなきゃ大丈夫ってことですね。

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2020年5月 2日 (土)

アドバイスと第一種接近遭遇の日々

 昨日今日と、それなりに忙しい日々です。昨日も今日も朝の検温は36.7°。

 29日に一学期の映像授業化が発表され、一昨日朝にそれを知って以来、ずっとそれに向けての学習アドバイスを執筆しています。出講予定校舎の大半にはすでに発信済み。

 という昨夜になって、ようやく学校の中央から各講師あてに連絡があり、自分の担当する生徒さんに対してメッセージを書いてくれとのこと。

 おせーよ!!~o~

 というわけで、今日も一日学習アドバイスの執筆…と言いたいところですが、我が家的にはYクンが網戸とベランダの掃除をしたがり、一家総出で掃除。合間に執筆。けっこう多忙です。

 アドバイスの中核の部分は、簡単にいうと、この時期には焦らずに独りで出来る文法の基礎を固めておいてくれということ。映像授業の方は、精一杯の集中力でついていければオッケーでしょう。

 我が家の娘(仮称ケミ)は、午前中をほぼ学習とお手伝いに当てています。今日は、パパ先生とママ先生の国語と算数。用意してある市販のドリルを順調に進めて、もうすぐ四年生の国語文章題と五年生の算数ドリルが終わります。

 午後は、○○村の子供たちと遊んでいることが多いのですが、遊んでくれる子がいないと家へ入って本棚から漫画を取り出して読んでいます。

 ケミさんの本棚には、ワタシの購入した漫画の中でケミさんに読めそうな物が並んでいます。そんな中から、昨日は『日本人の知らない日本語』のシリーズを読破。かなりウケてました。

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 んで、その隣に置いてあった、にしおてつや著『マンガ源氏物語』↑をチラッと見たところで食事の時間になり、『源氏物語』とは第一種接近遭遇程度で終わってしまいました。

 にしおてつや著『マンガ源氏物語』は「桐壺」巻だけではありますが、数ある『源氏』マンガの中でも白眉と言って良く、分かりやすく面白い傑作です。コレ、意識的にケミさんの本棚に紛れ込ましていました。こういう日が来ようかと。

 今日はまだこの本に近寄りません。もしかするとしばらく機会がないかも。

 でも、この状況が続けば、いつかもう一度手に取るでしょう。早く読まないかしらん。~o~

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2017年4月29日 (土)

近時相談事事情

 一学期は昨日、第三週に突入しました。今の所順調です。

 

 今年は、親身になっての指導を基本方針としているためか、質問相談者が各校舎コンスタントにいます。そんな中でいくつか、今年目立つ傾向がありました。

 

 一つは、古文未修者。一昨日など一つの校舎で短時間のうちに三人も来ました。どうも今年は文転した受験生がかなりいるようです。社会の就職状況の好転が影響しているのかもしれません。
                                       
 文転した子に対するワタシのアドバイスは、およそ三点です。まず、最初のうちは授業で扱う基本文法の学習を徹底してやること。その際、授業にある程度任せてしまって構いません。こちらも一学期最初は、未修者でもついてこれるように指導していますから。

 

 次に、単語力の強化を急ぐこと。昨年も文系受験生だった生徒さんは、どんなにいい加減な学習をしていたとしてもある程度の量の古文を読んでいます。古文未修者との決定的な差異は語彙力です。そこの溝を早く埋めることが急務でしょう。

 

 最後に、小声で、「大きな声じゃ言えないが、去年から文系の子だって実はたいした実力ないから、大丈夫。ちょっとその気になって努力してくれればすぐに追いつくよ」と付け加えてあげます。未修者が焦って変な参考書などに手を出すとろくなことがないので。~o~

 

 今年の傾向としては、質問者の質が高いということもあげられます。テキストの現代語訳を持ってくる子の訳文に出鱈目が少なく、ひところに比べてしっかりしてます。コレは大変ありがたいことです。出鱈目の訳は見てて疲れるもの。
 また、「買ってはいけない」バナシに対して、高校で京○書房の文法副教材を使っていたという相談が減少しているのも喜ばしいことです。これは、ここ数年の傾向なのですが、今年は特に感じました。

 

 この文法副教材を使っていたという子には、この教材のどこが拙いのか説明したNG集のプリントをコピーして渡しているのですが、今年はコピー数枚で済みました。どうも、採用している高校がひところに比べて減っているかもしれません。

 

 しかし、依然として、「はじてい」の相談は多いんですけどね。~o~;;;

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2015年1月 6日 (火)

受験指導における訳というものについての硬い話

 「しばらく娘と雪の上のことだけ」と書いておきながら、ちょっと思い出したことがあります。かなり唐突ですが、古文の現代語訳の硬い話です。

 

 先日、仕事終了後に質問を受けました。センター試験の過去問の設問になっていない所の現代語訳について。

 

 2005年本試、『日光山縁起』から、「この川の水を飲みぬれば、ふたたび妻にあはずと申すなり」の部分の訳について質問でした。その子の持っているセンター試験対策の本には、「この川の水を飲みぬれば」が”その川の水を飲んでしまったら”と訳してあるというのです。

 

 「『已然形+ば』なのに何故仮定条件の訳をしているんですか」とのこと。うーーん、よく勉強しるなあー、モットモだ。

 

 これ、多分、その本を書いた方は、ある程度判ってやっているんでしょう。趣味で訳しているなら、間違えとは言えません。ちゃんとした訳です。しかし、受験指導の本の中の訳としては、問題があります。

 

 確かに文脈から言うと、ここは仮定条件です。しかし、「飲みぬれば」の「ぬれば」は、どうしても「已然形+ば」です。そして、「已然形+ば」を古語辞典で引くと、”・・・したら”という訳は出てきません。

 

 これは実は簡単なことです。「已然形+ば」には、いわゆる確定条件以外に、恒時条件とか恒常条件と呼ばれるものがあり、これを訳すと、”・・・すると、いつも(必ず)”となります。これは、一種の仮定条件です。恒時条件とは、一種の仮定のもとに、必ずいつも一定の結果が生ずることをいうのです。この用法は室町から江戸に掛けて「未然形+ば」と入れ替わって行くことになり、江戸後期に至って、現代語の「仮定形+ば」の語法となります。

 

 この文章の場合は、”この川の水を飲んでしまうと、必ず、妻に会わないことになると申しているのです”という意味になっているのです。

 

 これを判りやすく現代語に訳すと、確かに、”この川の水を飲んでしまったら”となるかもしれません。しかし、それでは、古語辞典に頼って学習を進めている受験生に理解不能な訳になってしまいます。

 

 実は、古文の現代語訳というものは、古語辞典に載っている訳だけでは上手くいかない場合があります。どうしても学校文法で説明しきれない文法現象などがあるためです。例えば、単なる<打消>「ず」を”・・・できない”と訳したくなることもあります。

 

 しかし、だからと言って、受験指導において、古語辞典の訳を無視して、文脈から勝手な訳をつけていては、単に受験指導だけでなく、古文の教育そのものがよって立つところを失います。古語辞典なんか引かずに勘で訳して良いということになっては、高校や予備校での教育は崩壊してしまいます。

 

 確かに古語辞典の説明は万全なものではないけど、「古語辞典は万全じゃないから」と古語辞典を無視した勝手な訳をつけたりすると、困るのは、古語辞典で勉強している真面目な高校生受験生の皆さんです。

 

 「古語辞典は万全じゃないから」と勝手な訳をつける方は、単なる自己満足で受験生を困らせていることになります。そんなことは教育者のやって良いことではありません。受験生を指導する立場の人間は、なるべく古語辞典に忠実に、しかし、文脈には適合するようにと熟慮しながら現代語訳を作らねばなりません。これは、受験指導をする者の責務です。

 

 まあ、古文は趣味でやってるんだよという方がたまたま受験指導してしまったなら、何をかいわんやなのですが・・・。

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2014年10月 1日 (水)

主語狂想曲に対する考察とごく普通のアドバイス

 今日は本来なら授業のないお休みの日なのですが、先週の電車トラブルで補講があり、どこかへ出かけるわけにもいかないので、自宅でデスクワークです。

 

 んで、さっそく逃避というわけです。~o~;;;

 

 過去のブログ記事を読み返してみたのですが、どうもこの事についてまとまったことを書いたことがなかったようなので、今日は、「主語問題」について書きます。

 

 我々のところには、よく、「文法と単語の勉強は一通り済ませたんだが、主語が判らなくて模試で失敗する」という相談が来ます。ワタシはこれを「主語判らない病」と呼んでいます。

 

 この病人さんに対して、というか、こういう人を狙い撃ちして、有名予備校講師の方達は、いろんな「方法」やら「公式」やら「マニュアル」やらをひねり出し、参考書などにも書いたりします。さらに、それをどこかで学んだ高校の先生方が高校生に教えちゃったりするので、我々のところにもその手のことに関する質問者が毎年のように来ます。

 

 ちょっとした「狂想曲」という趣なのですが、この騒ぎって何だか変だなあとワタシなどは思います。というのは、参考書などに示される「方法」やら「公式」やら「マニュアル」やら「ルール」やらというのを見てると、古文というものを日本語扱いしてないからです。

 

 これら参考書って、「古文とは特殊な言語なので、特殊な『ルール』があり、それを読み解くには特殊な『方法』『公式』『マニュアル』が必要だ」という幻想を作り出していませんか。つか、そういう幻想を利用して商売していませんか。

 

 でも、古文は我々の現代語と全く同じ日本語なんだけどなあ。

 

 古文というのは、日本語のルールに則って書かれています。そして、日本語の主語に関するルールはただ一つ、「言わなくても判る主語は言わない、書かなくても判る主語は書かない」。非常にシンプル!

 

 我々の日常会話を考えてください。そういうルールに従ってコミュニケーションを取ってるでしょう。例えば、お母さんが、「昨日言ったよね」と言った場合、聞いた貴方は、「『言った』の主語が省かれているということは、主語は言わなくても当然判る人に違いない」と推論して、そのような人を頭の中で探し、「私(母)が」という主語を補って理解するはずです。

 

 日本語とはそういう言語なのです。だから、古文で主語が書いていない場合、書かなくても判る人が主語なのだと考えて候補を絞って行かねばなりません。

 

 では、その「書かなくても判る」の理由としては、どんなことが考えられるでしょうか。実に様々なケースが考えられるのですが、そのうちの一つが、接続助詞の働きに関する感覚です。

 

 例えば、「私は、家に帰っ勉強する」と言った時に、「あなたが家に帰るのは判ったけど、勉強するのは誰?」と言い返されることがありますか。ないはずです。それは、接続助詞「て」の前後では主体の交替が起こりにくいということを我々が直観的に知っているからです。

 

 ふくろうさんの高校の先生のルール1はこれを利用したものです。しかし、この「て」の働きは、98%と数値化するとやや危険です。というのは、「自転車が壊れていケガしちゃった」「電車が遅れ遅刻しちゃった」などという文に接した時に、自転車がケガをしたり電車が遅刻したりという勘違いをやらかすからです。~o~

 

 つまり、「て」の前後の主語に関しては、「交替がおこりにくい」くらいに理解しておくのが良いのです。

 

 では、例の「をにがどば」はどうでしょうか。これらは、主に順接確定条件や逆説確定条件を表す語です。現代語では「ので」「のに」に当たる語ですから、それで考えてみればよろしい。

 

 つまり、こういうことです。「母が呼んだので、答えた」と言えば、「答えた」のは母じゃありません。主語の交替が起こったということです。しかし、これが毎度起こると考えると、「私は疲れたので、帰ります」「ベットに入ったのに、眠れなかった」などという文が出てきた時に、大パニックになるわけです。当たり前ですね。~o~

 

 この「をにがどば」で主語の交替が起こるのは、あまり高い確率ではないということが、上記の例から何となく判りますよね。まあ、交替が起こる方が確率的に高いだろうとは思いますが、「起こりやすい」までは言えないでしょうね。

 

 こんなふうに、古文の主語に関する問題は、現代語に置き換えて考えると楽に理解できることが多いものです。例えば、会話文で省かれやすい主語は誰か、現代語の会話を想像して考えてください。あきらかに「私」と「あなた」でしょう。会話文で主語が書かれてなかったら、そういう推論をしながら読めば良いということです。

 

 現代語から類推する方法が使いにくいのは敬語に関することや特殊な古典常識が絡むことくらいでしょう。現代人は敬語を使いたがらないから。だから、敬語を利用して主語を考える時には、特別な方法として意識する必要があります。

 

 逆に言えば、敬語の知識や特殊な古典常識を利用して推論しなければならない場合以外は、キチンと現代語訳してやれば、主語の見当はつくということです。現代語の感覚を上手く利用してください。

 

 そして、そのために、キチンとした現代語訳が出来るように、いろいろ訓練してみてください。総合的な読解力を向上させることが主語を把握するための最善の方法なのです。

 

 とまあ、こんなアドバイスを、「主語判らない病患者」の皆さんにはしています。これ、ごく普通のアドバイスのはずなんですが、主語狂想曲の最中では、もはや普通じゃないのかもね。

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2014年9月30日 (火)

「鬼がどばっ!」で主語が変わると

 今日は、午前中、ちょっと時間があるので、先日、ふくろうさんに質問を受けた件について、今年の入試問題を調べてみました。

 

 つか、調べてみると言うほどの労力もいらず、簡単にヤバい例が出てきました。2014年センター試験『源氏物語』の文章は、このように始まります。

 

 三条殿、「限りなめり」と、「『さしもやは』とこそ、かつは頼みつれ、『まめ人の心変はるは名残なくなむ』と聞きしは、まことなりけり」と、世を試みつる心地して、「いかさまにしてこのなめげさを見じ」とおぼしければ、大殿へ「方違へむ」とて渡りにけるを、女御の里におはするほどなどに対面し給うて、少しもの思ひ晴るけどころにおぼされて、例のやうにも急ぎ渡り給はず。

 

 これ、ちよっと煩雑なので、会話と心内語部分を省略するとこうなります。

 

 三条殿、「 」と、「 」と、世を試みつる心地して、「 」とおぼしければ、大殿へ「 」とて渡りにけるを、女御の里におはするほどなどに対面し給うて、少しもの思ひ晴るけどころにおぼされて、例のやうにも急ぎ渡り給はず。

 

 現代語訳はこうなります。

 

 三条殿は「 」と思い、「 」と、夫との仲を試した気持ちがして、「 」とお思いになったので、父大殿の邸へ「 」とおっしゃってお渡りになってしまったところ、女御が実家にいらっしゃる時などに対面なさって、少しもの思いの晴らしどころにお思いになって、いつものようにも急いでお帰りにならない。

 

 普通に読めば、ほぼ全ての部分について、主語は「三条殿」だと判ると思います。ところが、「をにがどば」で主語が変わると考えると、

 

 「父大殿の邸へ渡った人物って誰?」「女御と対面したのって誰なの?」「んで、最後のお帰りにならないのは、誰なんだろー??????」

 

 センターの最初の部分でこんなパニックになっちゃったら、結果は推して知るべし。

 

 ふくろうさんの所の先生もそうですが、例の「はじめからていねいに」の人なども、『古典文法を…』の姉妹編『古文読解をはじめからていねいに』の中で、「『を・に・が・ど・ば』の前後では、文の主語が変わる=主語転換法」「『鬼がどば』っと飛び出してくるイメージで覚えましょう」などとやらかしちゃってます。

 

 今年のセンターの平均点が低かった原因は、問題が難しかったってだけじゃないでしょうね。~o~;;;;

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