水曜は仕事がお休みの日です。
前日、書斎で仕事中のワタシの所にYが嬉しそうにやってきました。「明日は晴れて暑くなるらしいけど、朝の内なら、まだそんなに気温上がらないと思うんデスヨ」ナルホド。
こいつの考えることは分かります。なにしろ、先週は怪進撃だったからね。~o~;;
今朝、娘(仮称ケミ)を学校へ送り出してから、いつもの打ちっぱなしへ。

いつもの7アイアンを練習後、PWのアプローチを練習↑。
先週全くスコアの上では敵わなかったワタシですが、唯一、Yを感心させたのは、9番でのワタシのグリーン回りのアプローチ。Yクンはぶきっちょなので、スピンを掛けて止まるアプローチなんて打てないんです。
ちょっと教えて練習させました。ぜーんぜん出来ません。あはははは。
さて、それとは関係なく『源氏』の話です。『蓬生』巻。大弐の北の方となった叔母が末摘花を女房にして連れて行くために、源氏に忘れられたままで荒れ果ててしまった常陸宮邸を訪れて、末摘花をかき口説く場面です。
「『出で立ちなむことを思ひながら、心苦しきありさまの見捨てたてまつりがたきを。(中略)などかうあはれげなるさまには』とて、うち泣くべきぞかし、されど、行く道に心をやりていと心地よげなり」
と言う本文に対して、『小学館 新編日本古典文学全集』は、次の訳を付します。
「『いよいよ旅立とうと思いながら、おいたわしい有様がとてもお見捨て申すこともできないのです。(中略)どうしてこんなに見るも哀れな有様では』と言って、普通なら当然泣き出してしかるべきところだが、しかし、これから赴く任国への道に思いを馳せて、まことに心地よさそうにしている」
ところが、『旧全集』は、
『いよいよ旅立とうと思いながら、おいたわしい有様がとてもお見捨て申すこともできないけれど、(中略)どうしてこんなに見るもあわれな有様では』と言って、まるで泣きそうにしている、しかしこれから行く任地に思いを馳せて、まことに心地よさそうな面持ちである」
つまり、『旧全集』は、叔母が泣くふりをしながらも任地での贅沢な生活を考えて心地よさそうな面持ちと取るのですが、『新編全集』は泣くべきところなのに心地よさそうにしていると取るわけです。
実は、現在出版されている主な注釈書は真っ二つに分かれます。
<泣くふり説>『玉上琢彌 源氏物語評釈』『旧全集』
<泣くべき説>『岩波書店 古典大系』『新潮社 日本古典集成』『小学館 完訳日本の古典』『岩波 新日本古典文学大系』『岩波文庫』
『旧全集』は、「うち泣くべき」の頭注に「次の『されど…いと心地よげなり』を読めば、これが本心からでないことが知られる」とあることから、故A先生の読み方です。一方、『完訳』から変わったということは、故S先生が「泣くべき」に変えたということでしょう。
<泣くふり説>の玉上博士と故A先生には共通点があります。お二人とも、京都以外の御出身ながら京都で青年期をお過ごしになったこと。
昔、授業中に故A先生は、旧制三校の同級生の方のお宅に伺った時の「京の茶漬け」のような実体験を紹介なさって、「我々田舎者は、『源氏』にはそういう人達が出て来るものと思って作品に対峙しなければなりません」とおっしゃっていました。
つまり、玉上先生も故A先生も京の人の口腹相反する底意地の悪さを身に沁みて知っていて、それを読みに反映したということじゃないかしらん。~o~
そちらが正解だと思います。この叔母の台詞をよく読んでみると、四つのセンテンスのうち、三つが「…見捨て奉りがたきを。」「ゆるさせたまへとてなむ。」「あはれげなるさまには。」と言いさしです。いかにも泣きながら(泣くふりをしながら)言っていそうなんでね。
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