源氏を巡る日
木曜に共テ後の授業が終わって、しばらくお仕事お休みです。
暇つぶしに、以前、「感想を書く時がある」と予告した
コレについて書いてみようかなと。その後三冊も買ってしまいました。
まず、苦言から。ご本人が「古文を原文で読めない」と認めている方の書いたものを「訳」と呼ぶのは止めませんか。だって、「訳」にはなり得ないでしょう。原文読めないんだから。この本は、誰か学者さんが訳したもののリライトに過ぎません。学者さんの「訳」をこの人の文体で書き直したというだけのことです。
だから、コレをワタシは「訳」と認めません。でも、「訳」という縛りから離れて一つの読み物として読んでみると、いくつか興味深い点が出てきます。
まず、敬語を全部取ってしまうとこうなるのかという驚き。第一巻の帯に「疾走感のある訳文」とありますが、この疾走感を産んでいるのが敬語完全無視の文体であることは明らかです。逆に言えば、敬語を全部盛り込んだ訳文が現代語としてかなりコテコテと重たい調子になっているということ。
現代人に軽く読ませようと思ったら、コレもありなのかもしれませんねえ。
まあ…、「訳」じゃないんだからね。
それと、ちょっと感心したのは、語りの文体の処理です。『源氏物語』全体は、ある女房が語ったという体裁を取っているのですが、それを表現するために、巻の冒頭や末尾に所々、「デスマス」調の文を配してあります。本文全体はシンプルなデアル調なので、ちょっと不思議な体裁になります。例えば、第一巻「桐壺」冒頭は、
「いつの帝の御時だったのでしょうか-----。
その昔、帝に深く愛されている女がいた。」
などといった具合。この二種の文体の混合は、語り手の女房がハッキリ登場してくる箇所にしばしば用いられます。所謂「草子地」の箇所にも。
しかし、巻冒頭ならともかく、物語の途中での文体の変更はやや無理がありそうで…。
これは、「訳」じゃないからアリというわけにはいかないでしょうねえ。
全部、デスマスにしちゃえば良かったんじゃないですかねえ。谷崎源氏みたいに。
それと、『源氏』を巡ってもう一つ。
大河ドラマの第一回録画をようやく見られました。
うーーーーむ。
兼家と晴明の人物像は面白いけど、ちょっと道兼無理じゃね。平安貴族は死穢を気にするから、やたらに殺さないと思うが(少なくとも自分で直接は)。
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