2008年6月26日 (木)

誤謬と欺瞞の連鎖~『新修古典文法』京○書房

 一月ほど前に、生徒さんから相談を受けました。高校で某有名講師Aの文法副教材をずっと使っていて、隅から隅まで勉強したのだが、これからどうしたら良いか、って言うんです。うーーーーーーむ、お気の毒だけど、困ったねー。

 その子の通っていた高校は、神奈川の県立校でも進学校の一つに数えられるような高校です。そんな所にまで、某有名講師Aの魔の手が及んでいたかとちょっと驚きました。つか、使ってて変だって気づかないか?!某県立高の先生。~o~;;;

 仕方ないので、その子の持ってる本を借りて、全部チェックして、このままではマズイ所を教えてあげることになりました。あーあ、またまたしなくても良い余計な仕事を抱えこんじまった・・・。~o~;;;

 本を受け取ってみると、確かに、しっかり使い込んでる様子。書き込み、マーカー、付箋が付いて擦り切れてます。こんなに一生懸命勉強した本にケチつけるのは何だか申し訳ないのですが、でも、放置も出来ないしなぁ・・・。

 実は、以前、この本を使っている高校の先生に非常に使い難い本だと相談されたことがあったので、覚悟していたのですが、最初の方、案外しっかりしてます。

 誰かしっかりした執筆者が参加しているか、あるいは、この本以前に出版していた文法副教材をたたき台にしたのか、その両方なのか判りませんが、しっかりしたことも書いてありますし、生徒さんに判らせるための工夫も見られます。悪く無さそう・・・、と思って油断していると、突然ドドーンと来ます。なんじゃこりゃ?!ってな記述が。

 ・「る・らる」の訳し分け

 ・「む」と「べし」の意味及び訳し方

 ・「記号の接続

 ・「紛らわしい語の識別」

などの記述は、このテの本としては、ちょっと困ったレベルだと思います。まぁ、他にも細かい点でアヤシイ記述はあるのですが、生徒さんへの被害ということを考えると、無視出来ます。でも、この4点は、ちょっと困ったレベル。

 それと、全編に渡って、気になるのが「暗記しましょう」「暗記しましょう」のオンパレード。こんなに暗記しなきゃなんないのか?!つか、暗記で全て片が付くのか?!暗記の必要を否定するわけじゃないが、ちと暗記万能主義になってないかい。まあ、それがこの某有名講師Aの手法なんだけど。

 んがぁ、もっともっともっと困って看過出来ないのが、「敬語」。もともと、某有名講師Aの参考書の敬語の説明はデタラメの我流なのですが、この本では、しっかりした執筆者が参加しているため、却って混乱が見られます。

 敬語のページは、まず普通の説明が冒頭に来ます。おっ!マトモじゃん、と思っていると、次のページから展開されるのは、某有名講師の我流の説明。最初のページと矛盾してないかい、コレ?!

 結局、某有名講師Aの(多分)初期の誤った認識が早い時期に参考書になってしまったため、この本を書く際、その全面的修正をしてしまうと以前の参考書と完全に矛盾するので修正が利かず、マトモな説明との折り合いをつけなければならなくなって、このようなゴマかしの記述になったんでしょう。

 このあたり、小西教授が『古文研究法』の中で示された良心的記述の爽やかさと比較すると・・・、いや、こんなものと比較しては、小西先生に失礼過ぎますね。

 閑話休題。ともあれ、この本の欺瞞は結果的に、新たな誤謬を生むことになるでしょう。だって、この矛盾した説明を一生懸命勉強して理解しようとしちゃうマジメな子が全国にたくさんいるんですから。

 また、新たな誤謬は、全国の高校の教室で新たな欺瞞を呼ぶことになるでしょう。高校の先生方、この本の記述に従って敬語を説明するんでしょうからねえ。そりゃ何かゴマかしの説明をしなきゃ授業にならなくなるもの。誤謬と欺瞞の限りない連鎖。さてはて、どこまで行くのやら。

 某○都書房の皆さん、あなた方の会社の売り上げの向上は、日本の国語教育をそういう所へ導いた代償なのです。それに関して・・・、まぁ、ワタシごときが何か言うことでもありません。財布が満たされた代償にあなた方の良心が痛まなきゃ、それで結構なんですが・・・。

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2008年6月18日 (水)

逃げられないっ!再び

 今日は、久々に完全に授業の無い日でした。のーんびりした休日・・・と言いたいところですが、東北大の傾向と対策本と夏期講習のテキストがテンパッテて、のんびりどころじゃありません。

 逃げようとする自分をどうにか机に縛り付けてなんとか脱稿。郵送してきたらもう夜中です。ヤレヤレ。

 去年の同じ頃のブログを見ると、全くおんなじようなことをやってます。某大手さんの速報を誤答例にしてストレス解消させてもらったのまで去年と同じ。ワタシも進歩ないけど、某大手さんの速報も進歩ないですねー。~o~

 こんな解答では、全体の内容がつかめてないことになってしまう。部分的な読みと思い込みで解答してしまうのは、受験生に有りがちな誤りである。

 なんちって。~o~;;;

 そりゃそうと、Euro08のフランス、やっぱりエライことになりました。前回W杯準優勝チームがまさかの惨敗で予選C組最下位、しかも三試合でたった一得点。

 でも、まさか、あんな早い時間にリベリーが負傷交代してしまうとは・・・。攻撃の要を失って絶対に失点できないとなると、ディフェンスにもプレッシャーが掛かるので、アビダルのレッドカード退場も、まぁ、仕方ないか・・・・。

 しかし、仕方ないじゃ済まないのが監督のドメネク氏。もともとエキセントリックな人で、敵の多いタイプらしいので、まず逃げられません。解任は間違いなしですね。 

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2008年2月 5日 (火)

年中行事か、07年度赤本NG大賞

 今年は、ちょっとウッカリしていて一月にやらなかったのですが、遅ればせながらやりましょう。赤本NG大賞。

 とは言っても、今年は本当に大物がなくて、該当なしと言いたいところ。でも、まあ、二年続いたら、もう年中行事でしょうってことで三年目もやります。

 今年の栄えあるNG大賞は、「同志社大学社会学部」の筆者さんでーす!問二の解説でさらけ出した無知ぶりは、ちょっとこの手の本の執筆者という立場から考えるとあんびりーばぼー!なのに、答えは合ってる。~o~

 「なぞらへなる世をば見るまじきものと」の解釈を選択肢で問う問題なのですが、この執筆者さんは「なる」を「伝聞・推定の助動詞『なり』の連体形」って説明しちゃってるんです。助動詞の接続覚えてないんでしょうか。それとも、「なぞらへ」を終止形だと思ったんでしょうか。謎なぞなぞ・・・。~o~;;;

 確かにちょっと説明しづらいけど、"「なぞらへ」は、動詞「なぞらふ」の連用形が体言化したもので体言に接続する「なり」は<断定>の「なり」"と説明するか、"「なぞらへなり」で形容動詞化している"と説明するか、どっちかしかないでしょう。

 そんなワケの判らない誤りをしている割に、通釈はほぼ正しくて、解答は合っています。まあ、他に有力な選択肢が無かったってことでしょうけど、それにしてもこんな解説で苦情出ないんでしょうか。他人事ながら心配です。

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2008年1月12日 (土)

東京は疲れる

 今日は、午前中八王子、夜町田で、例の「親の顔が見たい」単語語句の講座でした。この講座、兎に角忙しくて疲れます。おまけに午前の八王子の時は、それほどでもなかったのに、午前の授業が終わって一旦自宅に帰っている間に前線が通過したせいか、夜の授業に出かける時には、思いっ切り寒い雨。シャレにならないくらいやる気がスポイルされました。

 一日の授業終わってホッとしていると、質問の子が来ました。毎週のように質問に来る子なのですが、某○会出版の問題集を隅から隅まで丁寧にやっていて、それに関する質問が山ほど。この問題集の解説が、また、手抜きなんだもの・・・。

 おまけに彼の電子辞書には、いろいろ載っていない語句があるらしく、「辞書で検索したんですけど載ってないんです」を連発。その場で某福武書店の古語辞典を引かせました。やっぱ、紙の古語辞典も自宅に持ってなきゃダメですね。来年度から、そういう指導をしようかしらん。電子辞書は携帯に便利で良いとは思うのですが、利便性を優先すると内容が薄いってことですかねえ。

 質問が全て終わった時には午後九時近く。疲れたー。この季節、東京にいるとむやみに疲れます。東京はヤダねえ。~o~;;;

 仕事を全て終えて、町田の居酒屋「伊吹」で夕食。東京都野崎酒造の「喜正 大吟醸 袋吊り出品酒」というレアな酒をいただいてきました。含むとふわりと甘い含み香があるのですが、その割りに軽く終わらずに、しっかりした酸と旨味を持っています。酸度1.5らしいです。なかなか良いバランスのお酒でした。東京のクセにヤルじゃないですか。~o~

 帰宅して、このブログを書きながら、昨年10月に購入して冷蔵庫で保管していた群馬県柴崎酒造の「船尾瀧 純米吟醸」を一杯。軽いけれど人懐こい酸味に癒されます。良いなぁ、コレ。~o~

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2008年1月 5日 (土)

古文センター試験対策のホントのところ

 昨日、今日とセンター試験対策講座でした。昨日は町田、今日は八王子と吉祥寺。全く同じ話を三回やらねばなりません。ちょっと疲れます。センター試験対策の講座などと言っても、一日三時間だけで何か決定的なことが出来るわけではありません。昨年も書きましたが、気休めに近い講座です。でも、受講する子が多いんですよね~。~o~;;

 ただ、昨年同様、単なる気休めではない授業をしたつもりです。少なくとも、市販されているセンター試験対策の参考書よりは2~30倍くらいマシなはずです。まー、それだけ市販されてるセンター試験対策本がいい加減だということですけどね。

 例えば、「最小の時間で最大の効果をあげる」と謳った某大手出版社の対策本は、ナント、初版が1997年です。センターの古文って、2001年あたりから傾向がかなり変わってるんですけどね。今さら前世紀の傾向を学んでどうしようってんでしょう。

 2001年以降のセンター試験は、それ以前の問題文が1000字前後であったのに対し、平均1300字前後と長文化しています。その対策を考えなきゃ、対策本の意味がありません。しかも、近年、現代文の評論文が長文化しているため、時間の逼迫は、前世紀の比ではありません。21世紀のセンター試験は、時間のコントロールがテーマなんです。

 また、2001年以降、和歌の問題が必ず出題されています。ところが、和歌の対策というと、和歌修辞に関する知識を暗記させようとする対策本が多いんですよね。でも、実は、センター試験で和歌修辞が出題されたのは、1990年代の前半の話で、もう十年以上和歌修辞なんか出題されてないんです。

 まー、出題者ではない身としては、何が出るか出ないかなんて断言できないんだけど、今までどんな問題が出てきたかくらい分析しなきゃ、対策本にならないと思うんですけどねえ。

 そういう意味では、まー、ワタシの「気休め」の講座は、「NZ産ウールのベスト」くらいには評価しても良いのかなあ、と自分で自分を「気休め」したりして・・・。~o~;;;;;

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2007年11月 7日 (水)

ビジネスシートへの羨望

 今日は、横浜で授業でした。朝の横浜通いは、相変わらず辛いものがあります。特に、今日のように八王子駅で座れないと、人生の全てを呪いたくなります。あー何だってオレが朝イチで横浜くんだりまで、ブツブツブツ・・・・。

 ふと、目の前の七人掛けの座席に六人しか座っていないことに気づきました。普通こういう場合、六人のうちのどこかに大きな隙間があってもう一人割り込めたりするのですが、今日の六人さんは、微妙に均等な間隔をとって六人とも隣と肩を触れ合わない程度にゆったりと座っています。全員体格の良い男性ということもあるのだけれど、見事なチームワークです。

 こういうの見ると、気の小さいワタシは怒りよりも羨望を感じてしまいます。こんな満員電車で周囲に立っている乗客の怒りの眼差しを無視して、ゆったりくつろいで座れるってのは、なんてステキなメンタリティーなのでしょう。この人達、長生きするだろうなぁ。まあ、オレには出来ないけどさあ。

 結局、この六人のうち、ワタシの目の前の学生が二人、町田で降りたので、そこに入り込んで思いっ切り隣のサラリーマンに肩を寄せて圧力を掛け(お、大人げない ~o~;;;)、最終的に七人掛けの正規の場所に戻ってもらって七人で座りました。ああー疲れた。~o~;;;;

 ワタシゃどうも、こういう公共機関で、特権的な座り方するのはニガテです。だからグリーン車ってのも嫌いです。飛行機のビジネスクラスは乗ったこと無いからわからないけど、うーむ、食事と酒が良さそうだからアレだけは一度乗ってみたいかも・・・。~o~;;

 横浜での質問の時間を使って、ようやく赤本の間違い探しD社大篇を完成させました。あああああタイヘンだったす。こんなに苦労したけど、D社大なんて受ける子は、ワタシの教え子には何人もいないんだよねぇ、きっと。~o~;;;;;;;

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2007年9月27日 (木)

やんなっちゃふ

 今日、町田の校舎で授業後、高校で使っていた文法書を持ってきて質問した子がいました。以前からよく質問に来る子で、本人は至ってマジメな子なので、文法書もずいぶん使い込まれています。ところがどうも質問していることがトンチンカン。

 ふと、気づいて文法書の表紙を見たら、ん~~出たぁ~!某有名講師A編著、某「京都○房」の高校用文法副教材デス!~o~;;

 以前から、存在は知っていたし、この文法書を使っている高校の先生から相談を受けたこともあったので、どんなものかおおよそは知っていたのですが、まさかワタシの所にその本を持ってきて質問する子がいようとは。

 ワタシは、年度の最初の授業で「買ってはいけない」の話をするので、生徒さんには某有名講師A嫌いで知られています。なので、某有名講師Aの本を持ってワタシのところに質問に来る子はほとんどいません。もしかして、使っている子はいるのかもしれませんが、ワタシの所には持ってきません。それがどうして?

 その子に聞いてみたところ、入学が遅くて一学期の第二週目からしか授業を受けていないのだそうです。ナルホド。どーも、熱心なわりにトンチンカンな質問が多いと思ったヨ。

 なんでも、その子の通っていた高校の先生は、「この本は生徒が自分で勉強できる良い本だ」と絶賛していたそうな・・・。あ~~あ、やんなっちゃふ。やっぱりそういう人が出てくるんだよなー。

 それにしてもこの某「京○書房」という会社、何を考えているのでしょう。学校用文法書と言えば、どこかのマジメで権威のある大学の先生が編集したスタンダードな文法書ばかりだったのに、こんなヤクザな予備校屋に執筆を依頼しちゃうなんて。こんな文法シロートの方に文法書を書く力があるわけないって気づかなかったとでも言うのでしょうか。

 そりゃ会社としては、有名な予備校の先生にお願いして画期的な判りやすい文法書を編集し、高校に売りまくっちゃおうと考えたのかもしれないし、現実にそうなりつつあるのでしょうが、書かせるに事欠いて何も某有名講師Aに依頼しなくったって・・・。

 結局、質問に来た子には、「買ってはいけない」話を一くさりするハメになってしまいました。疲れた~。~_~;;;;;;;

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2007年6月19日 (火)

逃げられないっ!!

 というわけで、東北大の傾向と対策本、脱稿しました。~o~

 さすがに今日脱稿しておかないと、仕上がりがまた週末になってしまったりしたら、編集者に何と言われるか、正直怖かったので、少し無理をしてでも仕上げました。最後はちょっとシンドかったけど、夕食摂らずに頑張って夜九時過ぎに脱稿。やれば出来るじゃん>オレ。

 今回、某大手さんの速報には大分お世話になりました。昨年も、その場面に出てくるはずのない人物名を解答の中に書き込んであったりしたので、

  受験生は素人なので、このような間違いをしても仕方ない。採点者も苦笑いして許してくれるだろう。

 などとやらかしてみたワケですが、今年も、何も考えてないような漠然とした模範解答を出してきたので、

  このように漠然とした印象で答えてしまうのは、記述問題に慣れていない受験生にはありがちなことだ。

 などとやらかしてしまいました。読んだら怒るだろーなー。あはは。~o~

 しかし、なんだって、こんなにマヌケな解答を・・・。某大手ともあろう所が、しかも、そのマヌケな答案をまだサイトに修正なしで残してあるなんて変なの。気づいてないんだろーか。てことは、昨年のワタシの原稿は読んでないのかな。まー、無理もないか。予備校屋って傾向と対策本なんて普通見ないから。

 ってことは、これから先もどんどん書いちゃって良いワケだ。~o~

 ちなみに、あらたに太字斜体下線機能を試してみました。これってあんまり使いすぎると見難くなるんでしょうけど、まあ、時々は使ってみようかしらん。全部機能使うとこんなになるワケですね。~o~;;;

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2007年6月18日 (月)

他画自賛または再び逃避

 今日は、午前中八王子で授業。午後はデスクワーク。例の東北大の傾向と対策本です。ウチ以外の某大手さんの解答速報をたたき台にさせてもらって執筆しているのですが、それにしても、某大手さんの速報の解答、一見マトモそうなんだけど、かなーりいい加減ですねぇ。見事にポイントを外して隙だらけ。ちょっと出来る程度の受験生が試験場でやりそうな誤答ってヤツですね、こりゃ。助かるなー、こいうの。

 以前書いたことあるけど、、我々が一番考え付かないのは、生徒さんの間違え方なんです。そういう点で、この速報の方は貴重。もしかして、よく出来る生徒さんにやらしているのでわ・・・。まさかね。~o~;;;

 その点で、ウチの速報は優秀です。自画自賛(と言ってしまっては大半の仕事をなさっているT先生に申し訳ないか・・・~o~;;)ですが、ワタシとT先生のチームは、東北大に関しては最強ですね。だって、時間的余裕のある今見直しても、ほとんど隙がありませんから。

 解答速報の時って、時間がないので(まぁ、これは毎年その日に、野沢と東京を往復しているワタシのせいでもあるのですが)、バタバタした中で解答をまとめるのですが、その割りに我々チームの解答は良い仕事してます。まぁ、偶然上手く行ってるって要素は認めざるをえませんが・・・。~o~;;;;

 などと書いてる暇があったら、原稿書かなきゃ。逃避イケマセン。~_~;;;;;;;

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2007年6月 2日 (土)

「良心」の死~『古文研究法』小西甚一著

 某女性ボーカリストの死が世の中を賑わしていた日、新聞の死亡記事の欄に一人の老碩学の死が、慎ましやかに紹介されました。小西甚一筑波大名誉教授。享年91才の大往生だそうです。

 ワタシ、別に小西教授とは面識もなく、もちろん教えを受けたこともないのですが、この方は、「先生」とお呼びしたい気になる方です。(ワタシゃ、自分自身が教えてもいない人間に「先生」と呼ばれるのはあまり好きでなく、従って、他人様をお呼びする時にも、なるべく「先生」をつけません。まあ、個人的に尊敬している人だとちょっと別ですが、単なる同僚には「先生」とつける気になれません)

 小西教授と言えば、我々には『古文研究法』です。だから小西教授へのリスペクトは、この本へのリスペクトということになります。今回、ちょっとこの本を見直してみたのですが、こりゃたいした本です。よくもまぁ、こんな本を書いたもんだし、よくもまぁこんな本が売られ続けていたもんだ。

 兎に角、ボリュームがあり過ぎます。本編だけで400ページ以上あり、しかも、この細かい文字。硬い文章。こんなもの現代の高校生、買うわけないです。しかも、所々に理解し難い説明が出てきます。例えば、二種類の助動詞「なり」と形容動詞語尾の「なり」を判別する問題に関して、

 「判別法は、連用形『に』を作ってみて、成立しなければ(2)(伝聞推定の助動詞「なり」)であり、さらに「に」を「が」に置きかえ、主格にしてみて、それが成立するなら(1)(断定の助動詞「なり」)である」

 なんて書いてある。つまり「男もすなる日記」という言い方は、「男もすに」と言えないから<伝聞推定>、「都なり」は「都が」と言えるから<断定>というわけです。

 いや、そりゃ確かにそうはなりますよ。でも、その「成立する」とか「成立しない」とかってのを今の子供にやらせて判ってもらえるかしらん。おまけに四段動詞に「なり」のついた「住むなり」なんかについては、文脈からの判断で済ませちゃうし・・・。なるほど、この判りにくさじゃ売れなくなったのも無理はないかもネ。~o~;;

 しかし、しかしですよ。この判りにくさ、難解さ、そしてマイナス要素としてのボリュームにも関わらず、この本は昭和三十年の初版以来、五十年に渡るロングセラーで、まだ売られているんです。もちろん、出版社始めとして関係各位の努力もあろうけれど、この本をこれほどまでのロングセラーとなした主要因は、おそらく小西教授の「良心」なのではなかろーか。

 小西教授自身が昭和四十年にお書きになった「改訂版のあいさつ」を引用してみましょう。

 「『自分の書いた本には、どこまでも責任を持ちたい』という約束に、私は忠実であった。この本は、初版このかた幸いにもずっと好評で、先生がたからも高校生諸君からも絶大な支持を頂戴した。こうした支持に答えるためもあって、私は毎年、すこしでも気に入らない所や新しい考えの出た部分があれば、どしどし書き直してきた。(中略)十年にわたって書き直したけれど、私の本にはまだ不備があるかもしれない。だが、良心だけは、ぜったい不備でないつもりである」

 お見事です。「先生!」って呼びたくなる気持ち判るでショ。ワタシはこの文章だけで、この人を尊敬する気になりました。

 実際、内容的にも、随分良心的と思わせる箇所があります。例えば、敬語の説明。この本執筆時の従来の学説による説明を紹介した後、この時点での新しい考え方を紹介し、「まことに明快な説明で、将来はこの考え方になってゆくだろう」などと書いてます。こういう書き方、参考書の中ではなかなか出来ないんですよね。煩雑になって読者を混乱させるし、読者にウケるわけがないもの。でも、小西教授の良心が従来の説のみを記してしらばっくれることを許さなかったんですね。

 そして、実際にこの新しい考え方は、現在の主流の説明になっていきます。そういう意味では、この五十年前の参考書は、現在のベストセラー、某有名講師Aの本などよりも遥かに進んでいます。だって、某有名講師Aの敬語の説明は、小西教授の「従来の学説」以前だもの・・・。~o~;;;

 現在、『古文研究法』は、本屋の片隅でひっそりと売られ続けています。その傍らでは、某有名講師Aの新著や、漫画のキャラクターを使うという思いつきダケで勝負しているベストセラーが平積みされて売られています。まことにウンザリする眺めです。

 小西先生のご冥福とともに、小西先生の死がそのまま出版業界の良心の死とならないことを願って、合掌。 

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2007年4月16日 (月)

イヤな予感と拍子抜けと困惑と

 今日から新年度の授業が始まりました。毎年、この一週間は緊張すると同時にちょっと楽しみでもあります。どんなクラスを担当するのか、どんな子供達と出会うことになるのかと。

 今日は、八王子と吉祥寺で授業がありました。八王子の浪人さんのクラスで例の「買ってはいけない」参考書の話をしたところ、質問に来た子が今まで通っていた中小予備校の講師の参考書はどうかと言うので、本屋で購入して調べてしまいました。

 実は、イヤな予感がしたんです。生徒が「無駄を省いて必要最低限のことを教える先生だ」というモンですから。大抵、そんなこと言うヤツ碌なモンじゃないので。本屋に行って数冊出ているその講師の本のタイトルを見て、ますますイヤな予感は高まりました。「ちょっと見てすぐわかる」みたいな売り文句が書いてあるので。

 ところが、中身を見てみたら、なーんだ、コレってウチの予備校のベテラン人気講師、S先生のパクリじゃないですか。まあ、S先生のパクリということは、マトモだから良いんだけどサ。

 それにしてもこんなマトモな中身を「ちょっと見ただけでわかる」みたいなヤクザな売り文句で売らにゃならんとは、どういうことなんだかねぇ・・・。~o~;;;

 夜の吉祥寺の授業の後、吉祥寺の居酒屋「蔵」で夕食。福島県高橋庄作酒造の純米吟醸「会津娘」をいただきました。素晴らしい酒です。旨味十分なのにイヤな雑味がなく、飲み応えあります。こんな酒がまだあったとは・・・。ちと驚き。帰宅後、酒造のWebサイトを覗いてみると、マトモな酒を熱心に作り、マトモに売っている蔵元さんだと判りました。

 やっぱマトモな物をマトモに売るのって良いです。そこへ行くと我々の業界は・・・。本当にどうなっているのやら。~o~;;;;

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2007年1月24日 (水)

今年もやります、06年度赤本NG大賞

 今日は、受験生向けの今年度の最終講義の日でした。例によって、何か気の利いた話も出来ず(06'1/26「最終講義の日」参照)、試験に対する心構えみたいな話をして終了。

 さて、昨年、冗談で書いた赤本NG大賞(06'1/23)。メンドいから今年は止めようかなと思ったのですが、まー、一応ネタはあるので、今年もやります。ただ、昨年ほど感動出来る大NGではないのでねー。「大賞」としては該当者無しに限りなく近いのですが・・・。

 今年の輝けるNG大賞は、「法政大学経営(Ⅰ日程)」の筆者さんでーす!問一のロ、助動詞「む」の、傍線部での意味を問う問題に対する解説は、感動的NGの少ない今年の赤本の中では出色の出来でした。

 「『む』の意味は推量・意志・婉曲・勧誘。ここでは女房が言っているので、意志か勧誘。」

 あまりと言えばあんまりにデタラメな説明でしょう、コレは。~o~;; 「女房」が言ったことだと<推量>や<婉曲>にならないってのは、どういう根拠なのやら。

 動作主体の人称から「む」の意味を決定するっていう方法は、我々も時々授業で使うし、割と一般的な方法論だと思うのですが、この赤本の説明は、誰が言った言葉か、つまり話者で「む」の意味を決定しちゃおうっていうんですが、こんなの聞いたことないゾ。

 この執筆者、全く無能で解説が出来ないのか、締め切りに追われてひどい手抜きをしたのか、多分両方なんでしょうねえ。~o~

 ここは、傍線部の前で彦七が「御入り候へ」と女房を誘っているのに対して、「参り候はん」と女房が答えている所だから<意志>と判断出来るのであって、そういう会話の流れを無視して「む」の意味を決定しようとするから、ワケの判らないことになるんですな。

 というわけで、今年度の赤本NG大賞が決定したところで、予備校屋としての仕事はひとまず終了。明日から東京都技術選予選のために車山スキー場です。ちょっとワクワクドキドキなのですが、その前に例の問題集の原稿をもう一章分、完成していかねばなりません。明日は朝からがむばらねば・・・。~o~;;

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2007年1月15日 (月)

一難去ってまた執筆

 今日は吉祥寺で三時間の講習。その後、もしかして体調を崩した同僚の代講・・・、の予定だったのですが、どうやら持ち直してくれたらしく、代講するに及ばずとの連絡。ホッ。~o~

 ホーントにほっとしました。こういう講習の代講はツライです。なにしろ、生徒さんは、その先生の名前で講習を申し込むわけです。その先生の授業を期待して来ている子達の前にワタシのような無名講師が出て行っても、良い雰囲気で迎えてもらえるはずがありません。まあ、講習が終わる時には、「この代講の先生もそんなに悪くなかった」くらいの評価はしてもらえるとは思うのですが、それでも普段の授業よりも疲れるのは確かですから。

 しかし、一難去っても問題集の執筆は残っているわけで、授業から帰ってずっと執筆でした。これもストレス溜まる作業です。

 作業の過程で、以前、06'10/3「素人のタワゴトに悩まされた午後」で書いた中小予備校教材の問題集を開いてみる必要があり、ついでにその時に書いた、塾の先生の質問に対する回答を読んだのですが、自分のことながら、あの時は怒ってたんですねえ、ヒドイこと書いてる。~o~;;;

 この質問をよこした塾の先生って、多分、マジメな人で、某有名講師Aの参考書で一生懸命勉強しながら授業をしていたんだろうと思うんですよ。だって、ワタシの書いた教材のわずかな記述に目を留めて、某有名講師Aの参考書のお終いの方のページのちょっとした説明との矛盾に気づくんですから、ある意味たいしたモンです。某有名講師Aの参考書をよほどマジメに勉強してなきゃ気づきません。もしかして、某有名講師Aのファンだったのかも。

 そのマジメなファンの人を相手に、ものすごーく丁寧かつ微に入り細をうがった説明で、某有名講師Aの説明を木っ端微塵に粉砕しちゃってる・・・。最後には、「こんな素人の書いたタワゴトの本は生徒さんの目に触れさせてほしくない」とまで書いてます。ひどいなぁーコレ。もしかしてワタシは相当な粘着クンなんでしょうかねえ。~o~;;;;;

 ちょっと大人げなかったと反省などしてみたのでした。

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2006年10月 3日 (火)

素人のタワゴトに悩まされた午後

 今日は仕事オフの日でした。午前中は、例の「めまい」の病気のため通院。午後は・・・。今日の午後は、デスクワーク、それも、最悪のデスクワークでした。

 実は、以前、塾教材専門の出版社で、中小予備校の教材になる問題集を作ったことがあったのですが、その時の解説に対して現場の先生が質問してきたのです。和歌の物名歌というものに関する質問なのですが、その質問ってのが実に悲惨なもので・・・。

 このプログで何回も取り上げたことのある某有名講師Aの和歌の修辞法に関する参考書のコピーを添えて、「この参考書に書いてあることと解説が矛盾する。この解説では『掛詞』と説明しているが、正しくは『物名』ではないのか」ってんです。イヤハヤ。

 そりゃ確かに「物名」なんです。でも、「物名」って「掛詞」を用いて物の名前を和歌の中に隠し込むことなんです。この「現場の先生」の言ってることは、「カーステレオは、車の中にあるからステレオじゃない。自動車だ」と主張しているようなものです。車に用いられていたからってカーステレオはステレオの一種だよ。「物名歌」に用いられていたからって「掛詞」は「掛詞」なんだよぉ。~o~;;;

 厳密に言うと、学問的には、「物名」と「掛詞」の発生は別です。でも、やってることは全く同じになってしまうので、「物名歌」中の掛詞だって広義の「掛詞」と言って差し支えなく、「物名歌とは掛詞を用い和歌の中に物の名を隠し込むこと」って説明したって全然間違えじゃないはずなんです。それなのに、某有名講師Aの参考書では違うものだってことになってるんです。

 ところが、某有名講師Aの参考書で説明してる「物名」と「掛詞」との相違点てのが、もーまるでデタラメで、こんな説明ではいくらでも反例が出てきてしまうようなシロモノ。現に某有名講師Aの本の中にさえ、よく読めばこの説明の反例が出てくるんです。それなのに、この「現場の先生」ってのが、何にも考えずに有名講師の言い分に盲従してしまう人らしくて・・・。

 こんな人に何を説明したら判ってもらえるんだろう、と思いつつ、仕方ありません、午後は半日かけて丁寧な説明を書きましたよ。どんな大○鹿モンでも判るようにっ。

 いったい、これから先、どれほどこんなことが起こるんでしょう。日本の古文教育について、暗澹たる思いを禁じえません。たかが素人のオバサン一人のために、日本の古文教育全体がゆがめられているんです。素人オバサンのタワゴトが日本中の(力の無い)古文教師達を支配しつつあるんです。この状況は限りなく悲惨です(5/10「句読点幻想その二」参照)。

 しかし、考えてみると、このオバサン、スゴイ人ですねえ。改めて感心しちゃうなあー。某有名講師Aよ、アンタはスゴい!スゴいゾっつ!!~o~

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2006年9月27日 (水)

赤本の季節

 今、個人的に赤本の季節です。赤本、教学社さんから出ている大学別の過去の問題と対策本です。この赤本なるもの、もう大変な伝統のある本で、何十年もに渡って毎年、夏から秋のこの時期に、全国の大学を網羅して出版されているシリーズです。この季節、本屋さんの学習参考書のコーナーが真っ赤に染まるのは風物詩とさえ言えるでしょう。

 んで、実は、個人的には、この季節は赤本のあら捜しの季節なんですよね。赤本、毎年、かなり間違いがあります。ひどいもんです。時には、この執筆者は本当にこの大学に合格できるんだろうかと思うことすらあります(06'1/23「05年度赤本NG大賞」参照)。

 まあ、間違いだらけでも仕方ない理由はあります。なにしろあれだけ全国の大学入試問題を網羅していると、少人数の信頼できるスタッフだけで執筆することは不可能です。いろんな人間に原稿を依頼しなければなりません。しかも、時間的にあまり猶予はないはずです。なるべく急いで出版せねば売れないからです。そのために、あんまり信頼できないスタッフが徹夜のやっつけ仕事で書いたんじゃないかと思わされるような本が、どうしても混じってくるんです。

 赤本の解答解説がアテにならないというのは、昔からの予備校屋の常識でした。だから、この時期、受験生には、「そろそろ過去問に取り組まなければならないけど、赤本の解答解説に納得がいかなかったら、すぐに質問に来るように」と言わざるをえませんでした。

 結果的に信用できない本を生徒さん達に勧めざるをえなかったわけです。ある時、それがイヤで、自分で赤本の間違え探しを始めてしまったら、あるはあるは・・・。イヤハヤ、こんなに間違ってたのかよ~。~o~;;

 んで、毎年この時期に、赤本のNGを大学別にプリントして希望者の生徒さんに配っています。もう十年以上続けてるんじゃないかな。ここまで続けてしまうと、もう止めるわけにもいかず、今年もこの時期はあら捜しとNGのプリント作成の日々。しかし、コレって結構疲れるんだよな~。仕事量が多い割りに、無報酬だし、生徒さんもさほど感謝してるみたいには見えないしな~。こんな所でグチを垂れるしかないのでした。~o~;;;

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2006年9月13日 (水)

予備校屋、忙(?)中、閑(?)有り

 今日(12日)は、一日、家でボンヤリしてました。実は仕事はあるのですが、急ぎでもないので、なんとなく先送り。午前中は、ぼけーっとネットをさまよい、午後は仕事に、少しだけ取り組みました。まずまず最小限の予定だけは終わったかなぁ。

 某国立大学二次試験のための添削問題を仕上げて、毎年恒例の赤本の間違いさがしR教大学の分をやって、これで一日が終わるんでしょうねえ。

 R教大の赤本、例年通りで、まあまあ悪くはないけど、ちょっとずつ赤本執筆者に言いたいこともありました。しかし、それ以上に感じたのは、R教大出題者への不満。なんだか変ですよ。あきらかな出題ミスもあったし、どうしたんだろ。私文系の中ではR教大学の古文って非常に良い問題だったのに。

 こうした中堅私立大の問題って、何だかここんとこ年々オカシクなっているような気がします。これも少子化の影響でしょうか。受験者激減しているでしょうからねえ。

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2006年5月10日 (水)

タイムリーな質問

 昨日、某有名講師Aの話を書いたら、今日、たまたま、某有名講師Aに昨年教わっていたという生徒が質問に来てしまいました。昨年、他の中堅予備校で、衛星放送のAの授業を取っていたらしいのです。

 んで、Aの授業の何処が「使えない」かという話になり、「『98%』なんて言ってる所はたいてい使えない。例えば、『人物の直後に読点があるとき、98%主語』なんてヤツは危ないね」って話をしたところ、「A先生、上位クラス対象の授業だと、『98%主語』と言わずに、『難関校を受ける人は90%くらいだと思ってください』と言ってます」だって。

 思わず、失笑してしまいました。いかにも、この人らしいゴマかし方なので。だって、難関校だろうが下位校だろうが、出題される古文に違いがあっちゃあ可笑しいでしょう。主体判定の設問にしても、そんなに違う箇所を問うわけじゃなし。よしんば、難関校は意地の悪い例外的なところを主体判定の設問にするという理屈を認めたにせよ、主体の勘違いは他の設問に必ず影響しますから、難関校を受けない子だって、「98%」などと考えていてはマズいはず。「98%」の危険度は同じです。

 要は、「難関校を受けない子は、例外の箇所を見つける能力がないから、『98%』と思わせておけば良いけど、難関校を受ける子は例外を見つけてきてウルサイので言い逃れの利く数字まで下げておこう」というこの人の側の一方的な都合です。「98%」と思い込まされて、本番で致命的なミスをしてしまった難関校を受けない子は、いい面の皮です。そして、もっと「面の皮」なのは、参考書を買ってマジメに勉強してしまった人たち。誰に責任取ってもらえば良いっちゅうの?

 こういう話を聞くと、つくづく予備校屋は人気先行ではいけないモノだと思います。この人だって、人気が先行して参考書を早い時期に出版していなければ、毎年の授業の中で少しずつ微調整をして、「98%」を「90%」くらいまで下げることは出来たはず。でも、参考書を出版してしまっているので、そういう調整は不可能なんでしょう。その年の授業の中で、いきなり「95%」とかって数字にしてしまったら、「参考書には『98』って書いてあるのに・・・」って質問が来るでしょうから、参考書の信用度、全く無くなっちゃいますもんねえ。

 それにしても、こんな人の参考書が一番売れてるって現状を、どう思っているんでしょう、主な出版元になっている「学○研究社」サン。やっぱ、売れるが勝ちですかねえ。

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句読点幻想その二

 質問を受けた後、ちょっと気になって某有名講師Aの参考書を調べてみたら、やはり、ありました。某有名講師Aの参考書には、「接続のいろいろ」という章があります。このこと自体は問題ないのですが、そこに、助動詞の接続などと並んで、「記号の接続」という項目があり、「読点の直前は、原則として連用形です。『連用形、』と覚えましょう。」などと書いてあります。

 この部分、まともな古文教師には、まず発想できません。というのは、句読点が続くことを普通は「接続」と呼ばないからです。昨日も述べたように句読点は現代語の記号です。句読点やカギ括弧が付くことを接続と呼ぶのは、レタスを乗せたトレーを「野菜」と呼ぶようなものです。八百屋さんがトレーを絶対に「野菜」と考えないように、我々にとって、「句読点の接続」という発想は驚天動地の発想なのです。

 大学で古典文学をちょっとマジメに勉強すれば、句読点もカギ括弧も濁点もついていない古典作品の写本を目にする機会があるはずです。我々は、そういう物を通じて、これらの記号が古典作品プロパーとは本来無縁の、単なる「入れ物」であることを実感させられます。ちょうど、レタス畑を一度でも見れば、レタスにとってトレーが異質の物であると実感できるように。だから、句読点を古文の一部であるかのように扱う発想には全くついていけないのです。このAという人、某J大学の国文科を卒業しているはずなんですがねえ・・・。

 しかも、この「句読点の接続」という項目は、受験生にとってもマイナスです。昨日も書いたように句読点の使用箇所はテキストや問題によって微妙に異なります。折角覚えた「接続」が、句読点を施す出題者の感覚によってズレてしまうかもしれません。そして、何より一番マズいのは、この「接続」は、折角覚えておいても入試問題を解くのに使うチャンスがほぼ皆無だということでしょう。連用形中止法の部分の活用形を問うなどという問題、出されたのを見たことがないもの。仮にあったとしても、その動詞の活用を考えりゃ活用形を割り出すのは難しくないしねえ。

 某有名講師Aの参考書には、この他にも句読点関係のオカしな記述が見られます。例えば、

 「人物の直後に読点があるとき、98%主語になる」

 繰り返しますが、句読点てのは、出題者の感覚で位置がズレるんです。例えば、「昔、男、ありけり」とするか「昔、男ありけり」とするかは、あくまでも出題者の好みなのです。それをどうやって「98%」って数えたんでせうかねへ・・・。~_~;;;;;

 受験ということを離れて考えた時にも、この句読点を古文の一部と考えるような感覚を身につけてしまった生徒さん達は、何処かで恥を掻くことになるのではないかと思います。その子達が国文学科や日本文学科などという専門を選ばないことを祈るばかりです。

 それにしても、こんな本が売れているってどういうことなんでしょう。こんな本を推薦する大○鹿モンの高校教師がいたりする現状って・・・。今回のことで一番恐ろしいのは、昨日の質問の生徒が直接Aの本を読んだのではなく、どこやらの中小の「塾」で教わっているということです。Aのこのデタラメの教えをマトモに信じている教師がいるってことです。つまり、Aの教えはこれから先、鼠算式に拡散していくのかも・・・。

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2006年5月 9日 (火)

句読点幻想

 GWも明けて、今日から通常授業再開です。ちとツライです。疲れます。

 それはさておき、先週の月曜、連休の合間の授業でヘンテコな質問を受けました。次の『竹取物語』の文章に関する質問です。

 「あたりを離れぬ君達、夜を明かし、日を暮らす、多かり。」

 「『暮らす』は、次に『、』が打ってあるので連用形のはずなのに、何故『暮らす』なんですか?」

 古文をちょっとでも判っている人なら、脳ミソが逆上がりしそうな質問です。意味が全く不明なんです。「暮らす」は、ここでは四段活用動詞の連体形で、所謂「準体法」という用法。早い話が連体形の下の名詞が省かれている形。この場合、「人」が省かれていると考えれば上手く訳せます。そこに何ら疑問の余地はありません。にも関わらず、「『、』が打ってあるので連用形のはず」ってのは、何なんだぁ????

 頭が混乱してきたので、その子にゆっくり丁寧に問い質してみたところ、「前にいた塾で、動詞の下に読点が打ってあったら、それは必ず連用形だと教わりました」と言うんですよ。イヤハヤ・・・。

 連用形には中止法と呼ばれる用法があり、文章を一旦区切る働きがあります。例えば、

 「空は青く、雲は白い」「本を読み、ノートを取る」

という時の「青く」「読み」は連用形中止法です。文が「青く」や「読み」で一旦区切れているのが判ります。それで、中止法の下には読点を打つことが多いのは事実です。しかし、現代語で考えても、連用形中止法の下に、必ず読点を打つとは決まっていません。「空は青く雲は白い」「本を読みノートを取る」とつなげて表記しても何ら問題はありません。

 しかも、古文で、とういうことになると・・・。大きな問題があります。だって、句読点て、現代語の記号だもの。オリジナルの古文の写本には句読点なんて無いワケで、教科書やテキストや受験問題に句読点が打ってあるのは、あくまで現代の人間が読み易いように打ったもの。いわば、現代人向けのサービスです。だから、同じ文章でもテキストにより問題によって句読点の位置は微妙に違ったりします。その句読点で活用形を決めちゃうというのは・・・。古文を専門でやった人間には考え付かない発想です。発想そのものがもうデタラメなんです。

 んで、このデタラメの教えなんですが・・・、どうやら出所は、例の某有名講師Aの参考書らしいんだよなぁ。~o~;;;;;;

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2006年3月27日 (月)

間違いのない参考書選び

 買ってはいけない参考書を授業では実名挙げて指摘できるのですが、こういう所で果たしてやって良いものか・・・、まー、危うきに近寄らず、実名挙げずに話を進めます。

 まず、買ってはいけないのは、美味し過ぎる文句が表紙や帯に書かれている物。「魔法の公式」「驚異の方法」なんて言葉があったら、そりゃ間違いなくオカシイでしょ。常識的に考えて、受験勉強にそんなものあるワケねーよ。

 表紙や帯で「わかりやすさ」が強調され過ぎてる物も危ない。「面白いほど判る」「面白いほど出来る」「一目見ただけで判る」なんて、変でしょ。普通に常識的に判断すれば、それは、「面白いほど判る」「一目見ただけで判る」程度のことしか書いてないということ。実は、コレって参考書を書く時の一つのテクニックです。出来るだけ、見やすい行間の空いたレイアウトで、簡単なことしか書かない。そうすりゃ、判りやすいこと間違いなし。でも、そんなスカスカの内容で、受験問題解けるようになると本気で思ってるんだろうか・・・。

 「美人」をうかがわせるキャッチフレーズが付いている物も危ない。そもそも、「美人講師」というのは、予備校の世界では、簡単に成功を収めてしまうので(06'2/19「簡単な予備校屋の作り方」参照)、苦労して勉強していない人が多いのではないかと思います。予備校屋なんて、最初の頃しっかりした知識がないなんてことは、往々にしてあります(06'3/23「懺悔ばなし」参照)。何年か仕事をする中で、必要に応じてしっかりした知識を身につけていくもんだと思います。「美人講師」だと最初から成功してしまうので勉強の必要がないし、そもそも人気講師になっちまったら、勉強する時間なんて取れないもんね。もちろん、ちゃんとした実力のある人がたまたま美人だったというケースも・・・、ん~~~まーあり得ないわけではないと言っておかないとマズいことになるんだろーな~~。~o~;; 

 まー、参考書の表紙や帯で「美人」をうかがわせるキャッチフレーズが出てくるってのが、そもそも異常だから、そういう物は避けておいた方が無難でしょう、ってことで・・・。~o~ 

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2006年3月26日 (日)

買ってはいけない

 昨日から、春期講習が始まりました。この新年度の始まる季節は、ワタシにとっては「買ってはいけない」話をする季節でもあります。

 実は、現在、受験の古文の参考書の世界は、ちょっとヒドいことになっています。例の、「わかりやすい公式」の有名講師の方達(06'3/22「そんなことは入試に出ない?」参照)の参考書が平積みになって売れている一方、マジメな参考書は本屋の棚の隅に追いやられています。この状態、もちろん公憤を覚える事態なのですが、我々無名講師にとっては、「公憤」というより、「自衛」の必要を感じちゃうんですよ。つまり、自分の教える生徒さんが「わかりやすい公式」の犠牲者にならないよう守らなくちゃならないから。

 生徒さんは、当然、専門知識のない素人ですから、売れている本が良い本だと思ってしまいます。しかも、某有名講師Xくらい極端な邪道ならともかく、某有名講師Aなどは、邪道をオブラートにくるんでマトモそうな顔をしているから生徒さんにゃ判りませんやね。加えて、あろうことかあるまいことか、高校の先生で、その「マトモそうな顔」に騙されて、自分の生徒に某有名講師Aの本を推薦する大馬○モンまでいるらしいので・・・。

 それで、この季節は、自分の生徒さん達を守る「自衛」の季節になっちゃうんですよ。授業では、申し訳ないが某有名講師XやAの実名を出して、「こういう人の参考書は買わないでください」と指導しています。そうしないと、06'1/25の「『わかりやすさ』その実例」で紹介したようなことになってしまうので。実は、ああいうこと、つまり、生徒さんが「わかりやすい公式」を覚えてしまって、我々の所にワケの判らない質問に来るってのは、今やそんなに珍しいことではないもんで。~_~;;

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2006年3月22日 (水)

そんなことは入試には出ない?

 昨日まで紹介した「無益な質問」をする生徒さんの勘違いに関連した話。「そんなことは入試には出ない」という台詞を予備校屋が口にすることがあります。これが二面性のある言葉で・・・。

 最初に断っておくと、理数系教科のように入試で出題される範囲を文部省さんが限定してしまっている教科の話ではありません。古文に限った話と思ってもらっても良いです。古文の講師の口からこの言葉が出た時には、たいてい次の二つの場合です。

 一つは、ホントに入試に出るはずのないマニアックな現象について詮索する生徒さんが質問に来た場合。コレ、割とマジメな子に多く見られることで、マジメな子の多いウチのような予備校だとしばしばあることです。そもそも、普通は教えないようなマニアックな現象を教える授業がレベルの高い授業だと勘違いしている生徒さんがいるんですよ、時々。んで、そういう子供達の期待に答えちゃう古文教師の方が、これまた時々いると。ところがそういうマニアックな現象は、まあ、まず入試には出ないんですナ。それで、「レベルの高い授業」を受けちゃった生徒さんが、我々マトモな講師の所へマニアックな現象について質問に来ると、この言葉を聞くことになるというワケです。しかし、このようなケースは、それほど悪いことではありません。生徒さんが余計な知識を持っているというだけのことですから。

 問題はもう一つのケース。実は、この言葉は、予備校屋の逃げ口上として使われることがあるのです。先日書いたように、生徒さんは、我々予備校屋について、入試に関して何でも知っているエキスパートだという勘違いをしがちです。ところが、それを利用する人達がいるんですナ。一月二十五日の「『わかりやすさ』その実例」で紹介したような「わかりやすい公式」を作り出してしまう有名講師の方達です。この人達、自分の公式が使えないような文章に出会うと、この言葉を使うらしいのです。

 「『わかりやすさ』その実例」で紹介した某有名講師Aなども参考書の中で、この「入試に出る・出ない」と言う言葉をよく使います。この人は、生徒さんの勘違いを実に上手く利用しているんですな。本当のところ、この人が出題者ではないのだから、「入試に出る・出ない」なんて断言できるはずがないのに・・・。

 ところが、この某有名講師Aの師匠筋にあたる邪道の王様のような有名講師がいます。この人を仮に某有名講師Xと呼んでおきますが、この人は凄かったらしいです。この人、とにかく「わかりやすい公式」を乱発します。多分、いま世の中に出回っている「わかりやすい公式」の大半をこの人が作ってしまったと言っても過言ではないでしょう。んで、その「わかりやすい公式」に反する例を持って、生徒さんが質問に行くと、この先生慌てず騒がず、悠然とこう答えるというんです。「君ネ、僕の言ったこと以外、入試では出ないんだよ」。コレ、ワタシの知人が現場で見ていた実話です。凄いですね~。

 こういう物凄い人が有名講師として生きていけるのも、生徒さんの勘違いのおかげです。ちなみに、このお方は、大手予備校に勤めたことはありませんが、参考書が今でも大量に売られています。参考書の世界では超有名講師と言って差し支えないでしょう。んで、某有名講師Aは、浪人時代にこのお方に二年間教わっているらしいんですナ。某有名講師Aの参考書に「入試に出る・出ない」という言葉が頻出するのは、どうやらこの師匠の薫陶の賜物なんですね。

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2006年1月25日 (水)

「わかりやすさ」その実例

 先週、センター試験前にセンターの過去問を持って質問に来た浪人君がいました。「この問題解けません」と言って、みせてくれたのは、97年度本試(『松浦宮物語』)の文法問題。

問2 「えゆるされたまはねど」の「れ」と「ね」の文法的説明として正しいものを次のうちから選べ。

①「れ」は尊敬の助動詞、「ね」は打消の助動詞  

②「れ」は受身の助動詞、「ね」は打消の助動詞

③「れ」は完了の助動詞、「ね」は打消の助動詞

④「れ」は可能の助動詞、「ね」は完了の助動詞

⑤「れ」は自発の助動詞、「ね」は完了の助動詞

⑥「れ」は下二段活用の動詞語尾、「ね」は「完了」の助動詞 

 これ、正解は②なんだけど、彼は納得できないという顔で、「だって助動詞『る』に<打消>がついたら<可能>のはずでしょ。でも、そういう組み合わせがないんです」って言うんですよ。どうやら、「わかりやすい公式」をどこかで教わってしまったらしい。

 つまり、こういうことです。「助動詞「る・らる」は、<可能>の意味になる場合、<打消>や<反語>表現を伴う」という原則が鎌倉時代までありました。つまり、古代の人達は、「る・らる」を<可能>の意味で使う場合、”~できない”という文脈の中でしか使わなかったんですね。んで、この原則は、古語辞典にも載ってるし、我々もよく授業中に教えています。

 ところが、これを「わかりやすい公式」に仕立てて、「『る・らる』の意味を判別する公式」を作ってしまう人達がいるんですナ。曰く、「『る・らる』に<打消>が付いていたら<可能>の意味」。これは、上記の原則とちょっと合わないでしょ。つまり簡単に言うと、原則は、「<可能>なら<打消>を伴う」。一方、「わかりやすい公式」の方は、「<打消>を伴っていたら<可能>」。ホラ、ちょっと違う。この二つの命題、等値にならないでしょ。

 これがもし、等値なら、「女子高生なら高校生」を「高校生なら女子高生」と言い換えられることになる。男子高校生、どこ行ったんだ~。~o~

 しかも、この原則は、鎌倉中期までです。鎌倉末期になると、例外が『徒然草』などに見られるようになります。だから、無限定にこの原則を「公式化」したりしてはいけないのです。ところが、やたらに「わかりやすい公式」を作りたがる有名講師の方達がいて・・・。

 今、一番売れてる参考書を書いている某有名講師A(モチロン他予備校)の本だと、

「<可能>の場合、95%の確率で『る・らる』の直後に<打消>があります。だから、<打消>があったら、<可能>と決めましょう」

 なんて書いてある。そもそも、「95%」ってのが何処から出てきた数字なのやら、全く不明(予備校屋ごときが、そんなものの用例を数えているわけがない)だし、「原則」を全く無自覚に「公式」にすり替えてます。この人、数学出来なかったでしょうね~。「必要十分条件」とか「等値」とかって概念が、全く念頭に浮かばないらしひ・・・。

 この手の「わかりやすい公式」は、この某有名講師Aだけではなく、実は、世の中の売れセンの参考書にはかなり出てきます。この某有名講師Aは中でも、その手の「公式」を一番「わかりやすく」説明しちゃう人なので、これからも、「わかりやすい公式」の紹介の時に、名前を挙げることがあると思います。 

 ワタシの所に質問に来た浪人君も、どこかで「わかりやすい公式」を学んでしまったのでしょう。しっかし、たかがセンター試験の文法問題が解けない公式なんて、何の意味があるっていうんだろー。困ったもんだー。こういう有名講師の方が、どんな方法で金儲けしようと、ワタシはあんまり興味ないのですが、ワタシの教え子達を毒さないでもらいたいもんです。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             

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2006年1月23日 (月)

05年度赤本NG大賞

 センターが済んだら、次はそれぞれの大学の過去問だ。過去問といえば赤本だ。というわけで、今年もやってきました。05赤本NG大賞!この賞は、毎年、当該年度の赤本の解答解説の中で、もっとも感動的な間違いをした筆者に送られる賞です。審査基準は、モチロン、厳正な、ワタシの主観です。~o~

 今年度の輝けるNG大賞は、ジャーン。「中央大法学部政治学科」の筆者さんです!

 なにしろ、問三「『給ふ』は誰が誰に敬意をあらわしたものか」という設問に対して、「会話文なので、話し手から聞き手への敬意となる」って解説してやがんの。すごいですね~。

 何がすごいかというと、通常、こうした敬意の方向を問う問題に関しては、まず、該当する敬語が「尊敬語」か「謙譲語」か「丁寧語」かを区別して、それから、「尊敬語」なら主体への、「謙譲語」なら客体への、「丁寧語」なら対者への敬意を表すと考えていかなきゃいけないのに、このお方は、尊敬語・謙譲語・丁寧語を全く区別せず、すべて、会話文の敬語は「話し手から聞き手への敬意」を表していると思っているらしいんですな。

 これでは、例えば、深津絵里ちゃんの三蔵法師が香取慎吾の悟空に「お釈迦様がおっしゃったのだ」というと、三蔵から悟空に敬意が払われてしまうことになるのだ。ちょっと想像すれば、ありえないだろ、ふつー・・・・。

 さらにアクロバチックなのは、そんなデタラメの解説なのに、何故か解答が当たってる!もー、神業!円周率=3で計算して答えが当たるのと同じくらい奇跡的。これは、もうNG大賞に十分値しますね~~。~o~

 なお、次点は、同じく「中央大学経済学部A産業経済・国際経済」の筆者さん。問五の解答解説のお粗末さは、ちょっと感動的なのですが、やっぱ大賞受賞作品の「奇跡の的中」に比べると感動が弱いかな。~o~

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2006年1月20日 (金)

無名講師宣言その二

 ブログ始めたら、何故か風邪ひいちゃいました。

 さて、無名であることのメリットの続き。無名講師だと、無理をしなくて済みます。逆に言うと、有名講師になり、それを維持するためには、ある程度無理しなければなりません。自分自身を無理にトンガラせるか教える内容を無理に個性的にするかです。

 自分自身を個性的にするというのも、本当に元々個性的なキャラだったり、あるいはせいぜい派手な服を着るという程度なら良いのですが(どっちもワタシにゃ不適合なんですけどね)、どー考えても無理だろー、無理してるよー、という場合があります。

 例えば、某私立文系に強いと言われている大手予備校での話。ある先生が授業中に差し入れのビールを飲んでホロ酔いで授業したところ、大ウケしてしまった。味をしめて毎時間ビールを飲むようにしたところ、他の講師がマネしだした。あわてたその先生、次の週には教室にラーメンを持ち込んで食べながら授業した。

 って話を、同僚の講師から昔聞いたのですが、コレ本当なのかどうかねえ。ラーメン食いながら話できないだろ、と思うんですが、ただ、この某大手予備校は、目立った者勝ちという雰囲気なんで、さもありなんとその時は思ったんですが・・・。まー、何にしても、この手のことはオレにゃ無理だな~。

 教える内容を個性的にする場合、二通りが考えられます。本当にその専門教科についてズバ抜けた力があって、それを披露するだけで生徒さんが恐れ入ってくれる場合と、そうでない場合です。

 前者は理数系の先生に多いようです。やはり、理数系は本当に天才的な人っているわけで、大学の先生だって、若くして教授になったりするのは決まって理数系です。ウチの予備校などでも、本当に「天才的」な力を見せ付けて有名講師になっている方はいらっしゃるようです。人文系は、知識の積み重ねが大事なので、「天才的」なんてのは、あんまり考えられませんが、まー、それでも、知識の量が生徒さんを呆れさせるくらい凄かったりすると、このタイプもありえます。このタイプの場合、「無理」はしなくて良いし、そもそも、生徒さんのためになることが多いので問題ないのですが、我々凡人は、教える内容を個性的にしようと思ったら、後者の道を行くしかありません。この後者の道ってのがイバラの道なんですな。

 まず、他の人以上にマジメに徹することで個性的であろうとする人達がいます。このタイプ、割と、ウチの予備校には多いです。このタイプは、どこがイバラの道かというと、個性は主張できても、生徒さんに受け入れられ難いんですね。つまり、有名にはなれても人気講師になり難い。昔は、このタイプの人が人気講師になったもんですが、最近の子供達で、マジメ一徹求道的授業なんぞを歓迎する子は、残念ながら少ないですね。

 となると、次に考えられるのは、他の人以上に判りやすい授業をしようとすること。この場合、普通のことをやっていてもダメです。何故なら、もともと予備校講師は、全員、判りやすさを目指しているから。そこで、多少の無理をしてでも判りやすくしようということになります。また、これが最近の生徒さんには受け入れられやすいんですな。

 今、本屋さんの参考書のコーナーに行くと、「わかりやすい」「よくわかる」という言葉が溢れています。どうも、そういうタイトルをつけないと本が売れないらしい。昔の参考書のベストセラーは、そうじゃなかった。例えば、昔の古文のベストセラーといえば、『古文研究法』(小西甚一著)。昭和三十年初版で、まだ現在も出版されているという怪物的ロングセラー。タイトルも内容もケレン味なしの正統派です。でも、この名著は、今、本屋の棚の隅に追いやられていて、平積みされているのは、『~なほどよくわかる』『よくわかる~』なんて本ばっかり。最近の子供達が「わかり易さ」を何よりも追い求めている現れです。

 ところが、「無理」をしてでも、「わかりやすく」するというのはどういうことか。典型的な例が、例の「ゆとり教育」の円周率の話。「円周率=3」と教えりゃ、そりゃわかりやすいですよ。小数の理解もいらないし、「パイ」なんていう抽象概念もいらない。計算も楽で、子供達も喜んで受け入れる。でも、それで、何が得られるの?教室での子供達の「僕にもわかった」という自己満足だけなんですよね。これって一種の教育的詐欺でしょ。

 それに類する「わかりやすさ」を教えてしまう有名講師、結構います。ウチは、マジメさが売りの予備校なので、このタイプ、少ないと思いますが(他の教科のことは詳しく知らないので、「いない」ではなく、「少ない」と敢えて言っておきます)、他の学校まで見渡すとかなりいらっしゃるようです。追々、この手の判りやすさについて具体的に触れてみたいと思いますが、何にしても、ワタシにゃこの手の「無理」は出来そうにないです。性格的に、疲れるんですよ、他人を騙すのって。

 というわけで、無理をしないで済んでいる、今の「無名講師」状態は、ワタシにとって理想的なのです。このまま一生、無名でいられれば良いな~、と思う今日この頃なのでした。

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