2023年1月26日 (木)

予備校ならアタリマエ?~『源氏物語』に関する些細なこと21

 今日は午前立川で質問待機、夜は池袋で高校生です。まあ、この季節の仕事はこんなものです。

 んで、『源氏』です。「須磨」巻巻末近く、源氏が須磨のわび住まいを嘆く場面です。

 「所につけて、よろづのことさま変り、見たまへ知らぬ下人の上をも、見たまひならはぬ御心地に、めざましう、かたじけなうみづから思さる」

 この一文に対して、『新編日本古典文学全集』は次のような訳をつけています。

 「土地がらとて万事都とは様子が一変して、今まで君のことなどまるで存じあげようもない下人のをも、これまでご経験にはならなかったことなので、ぶしつけにお感じになり、また我ながら不面目なといった気がせずにはいらっしやれない」

 これに対して、頭注には「『たまへ』は謙譲「給ふ」(下二段)で、意通じがたい。「たまひ」(尊敬・四段)の誤りか。源氏のことなどまるで理解も同情もない下人」とあります。

 近代の諸注釈、『旧古典文学大系』『玉上琢弥 源氏物語評釈』『新潮古典集成』『旧日本古典文学全集』『新日本古典文学大系』『岩波文庫』にも、ほぼ同様の記述が見られます。

 一番詳しいのは、『玉上評釈』で、

 「下二段活用の『たまふ』は、話し手自卑である。ここには合わない。しかし、『見たまひ知らぬ』の誤りとして、源氏がご理解なさらない下人の意とすると、すぐ下に『見たまひならはぬ御こゝち』とあるのと重複する感がある。下二段活用の『たまふ』は話し手自卑ではあるが、聞き手よりも話し手の方に近いとする場合に用いないでもない。そう解すれば、ここのところも語り手の女房が、源氏に対して自分を『下人』に近いと卑下して、源氏を『見たまへ知らぬ』、源氏を見ても理解できない下人と言ったのだ、と考えることもできようか」

と説明しています。

 でも、コレ、予備校屋的には全くあり得ない説明です。「下二段活用の『給ふ』は、謙譲語だが対者敬語で話者がヘリ下って畏まり対者への敬意を表す敬語で、主語は『私』で、訳は『ですます』調になる」と我々は説明しています。コレ、予備校じゃ普通の説明。

 だから、この「見たまへ知らぬ下人」は、予備校的には、「私が見知っておりません下人」と訳さねばなりません。

 ということはどういうことか、と考えてみると、『源氏物語』はある女房が語ったという体裁を取っていますので、ここは語り手の女房が顔を出して「私程度の者も見知る事がございませんような下人」と自らの身分を卑下しつつ語ったということになります。

 前掲の一文全体としては、

 「場所につけて、万事様変わりして、私程度の者も見知る事がございませんような下人の身の上をも、源氏の君は御覧になり、慣れないお気持ちで、『目に余ることだ。もったいないことだ』とご自分のことながらお思いにならずにいられません。」

 くらいの訳でピッタリです。

 繰り返しますが、コレ予備校的には当たり前の訳です。模試で出題したら、受験生だって(最上位層なら)こう答えるはずです。

 どうして諸碩学の皆さん、コレが出てこなかったんでしょう。不思議です。

 察するに、昭和4~50年くらいまでは、謙譲語=主体が客体に対してへりくだる表現、と多くの学者さんが考えていたために誤ったのではないかと思われます。

 しかし、今や敬語の認識は改まっているはずなので、少なくとも平成以降に出版された『新大系』『新全集』『岩波文庫』あたりは解釈を刷新していなければならなかったはずなのに…。

 うーーん。

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2023年1月21日 (土)

+フレイバーと師説再び~『源氏物語』に関する些細なこと20

 昨日、共テ後授業が終わりました。これで今年度の受験生の授業は来週の某W大対策を残すのみ。なんだか、スッキリ爽やかな気分です。

 昨日から我が家では、どういうわけかタンタライジングフレーバーという言葉が流行っています。もともと調味塩の入れ物に書いてあった英語なのですが、娘(仮称ケミ)が面白がっていろんなところに使っています。

 んで、このケーキにも。

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 Yのアップルケーキの新作です。紅茶入りなのだとか。これはかなり傑作で食欲をそそる香りがします。

 さて、それと関係なく「些細なこと」です。

 「空蝉」の巻冒頭。方違えで泊った紀伊守の家の人妻「空蝉」と逢瀬を持ってしまった源氏は、再び紀伊守の家を訪れ空蝉に迫ろうとしますが、察知した空蝉に渡殿へ逃げ出され、和歌の贈答のみで夜深く源氏が帰宅した直後の、空蝉の心情を語る一節です。

 「やがてつれなくてやみたまひなましかば、うからまし、しひていとほしき御ふるまひの絶えざらむもうたてあるべし、よきほどにて、かくて閉ぢめてん」

 この本文に対して、『新編日本古典文学全集』は、次のような現代語訳を付します。

 「もしこのまま、何事もなくそれきりになってしまうのだったら、恨めしいことだろうに、かといって、むりやり無体ななさり方がこれからも続くのであったら、これも情けないことだろう、いいかげんなところで、こうしてきまりをつけてしまおう」

 これのどこが「些細なこと」かというと、「やがて…やみたまひなましかば、うからまし」を「このまま何事もなく」と訳していることです。この「やがて…ましかば」は、反実仮想の仮定条件なのですから、「これから先、このまま現状が変わらなかったら」という訳にはならないはず。これは明らかに文法を無視した訳です。

 この「このまま」説は、『島津久基 源氏物語講話』『旧日本古典大系』『玉上琢弥 源氏物語評釈』『完訳日本の古典』『新日本古典文学大系』『岩波文庫』など近代の諸注釈に共通して見られるものです。例の文豪もこれに追従し、円地瀬戸内両訳も同様。

 近代の主な注釈書でこれに異を唱えるのは、唯一『新潮日本古典集成』の石田清水の両先生。頭注の「あのまま音沙汰なしでおやめになってしまったら、つらい思いをしていることだろう」は反実仮想の訳と思われます。こりゃ『集成』一人勝ちか。

 と思われたのですが、『旧日本古典文学全集』の頭注に、「そのまま。最初のときに逢ったきりで。」「『ましかば…まし』は事実に反することを仮定する。」を発見してしまいました。故A先生!。

 『旧全集』も現代語訳は「このまま」ですから、訳担当の故I先生と頭注担当の故A先生の間で意見が割れたのでしょう。昨年三月の「須磨」冒頭の時と同じ事情と推測されます。

 反実仮想を強調して訳すとこんな感じになります。

 「もし、あの最初の夜のまま何事もなく私との関わりを終えておしまいになったならば、情けなかっただろうに。でも、無理やりのお気の毒な御振舞が絶えないとしたら、それも嫌なことに違いない。適当なところでこのまま終らせてしまったら良い」

 この訳だと、空蝉は、「これから先、このまま源氏が言い寄って来なかったら恨めしい」と思ったのではなく、「最初のときに逢ったきりでそのまま何事もなかったら、情けなかったろうに、再び訪ねて来てくれて一夜だけの女にならずに済んだことは良かった」と思ったことになります。

 コレ、かなり違った読みになると思います。つまり、空蝉は、源氏二度目の訪問を、拒否しつつも内心ひそかに喜んでいたということになるのです。

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2023年1月18日 (水)

旅の空なる謎かけ歌~『源氏物語』に関する些細なこと19

 久々にデスクワークもないゆったりとした日々なので、久々にゆったりと『源氏』です。

 「須磨」の巻の源氏の憂愁の日々を描く場面には、源氏と臣下の者達との四首の唱和歌が出て来ます。こういう男達の唱和は『うつほ』だといくらでも出て来るのですが、『源氏』では多分ここだけです。『源氏』では省筆しちゃうから。

 その一首目の源氏の歌が今回の些細なことです。『新編日本古典文学全集』では

 「初雁は恋しき人のつらなれやたびのそらとぶ声の悲しき」

このように作られた本文に対して、

 「初雁は都にいる恋しい人の同じ仲間なのかしら、旅の空を飛ぶ声が悲しく聞こえてくる」

という訳がついています。

 コレ、変です。

 「AはBなれや~」は、類例の多くあるパターン化した詠み方で、例えば、『古今集』恋二の小野美材の歌などがそれです。

 「わが恋はみ山がくれの草なれやしげさまされど知る人のなき(私の恋は深い山に隠れた草であろうか、繁茂が増そうと思いが増さろうと知ってくれる人はいない)」

 まったく縁の無さそうに見えるAとBについて同じものだと謎を掛けておき、下の句(~)でその同一性を明らかにする一種の謎かけの歌です。

 この源氏の歌の場合も、「初雁」と「恋しき人」が同じものだと謎を掛けているのですから、下の句は両者の同一性が詠われなければならないはずです。しかし、「初雁」は「旅の空」を飛んで鳴き声をあげるでしょうが、「恋しき人」は「旅の空」を飛んだりしません。「恋しき人」は都にいて「旅の空」にあるのは自分なのですから。

 この奇妙な解釈は、『旧日本古典文学大系』『玉上琢弥 源氏物語評釈』『旧日本古典文学全集』『新潮社日本古典集成』などにも共通して見られます。

 『新日本古典文学大系』と『岩波文庫』は、この点を何とかしようとしたのか、「恋しき人」の解釈を工夫して、この和歌の直前にある「古里の女恋しき人々」という記述を承けて「故郷を恋しく思う者」の意だと取りますが、地の文の表現を源氏の和歌が承けるというのでは、いかにも苦しい解釈と言わざるを得ません。源氏の和歌の中で「恋しき人」とあれば「源氏自身が恋しく思っている人」と取るのが自然です。

 また、古注釈でもこの解決策は発見できませんでした。こういう時に不思議な力を発揮する文豪も、今回は注釈書に追随するばかり。

 ちょっと困ったのですが、予備校の教室で自分が教えたことを思い出しました。「和歌解釈のつながりが悪かったら、掛詞を疑え」。

 本文を「たびのそらとぶ声」と作ってしまうから気づきにくいのですが、「旅の空とふ声」なら明らかでした。

 つまり、「問ふ=飛ぶ」の掛詞で、「旅の空問ふ声の悲しき(旅の空にある自分を見舞ってくれる声が悲しい)」と「旅の空飛ぶ声の悲しき(旅の空を飛んでいる初雁の声が悲しい)」の二重の文脈で「初雁」と「恋しき人」が同じものだという謎かけの「心」を詠っていると解すれば良かったのです。

 こういう掛詞の類には敏感な古注釈が気づいていなかったのは、「問ふ=飛ぶ」の掛詞の類例がないからかもしれません。

 一首の解釈は、

 「初雁は都にいる恋しい人の仲間なのだろうか。初雁が旅の空を飛んでいる声が悲しいように、旅の空にある私を見舞ってくれる声は悲しいのだ」

 くらいになるでしょう。スッキリしてます。多分、800年間誰も気づかなかった「正解」です。

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2022年10月31日 (月)

秋の小金井ゆめまぼろし

 昨日の日曜、娘(仮称ケミ)は朝から塾でした。

 午前中にゆうパックで何か届きました。まさか、と思ったら、一昨日某アマゾンで注文したケミさんの過去問でした。ひえー、なんて早さだ。

 過去問のコピーをとり解答用紙を作成するのはワタシの仕事です。すぐに一年分の練習問題が出来上がりました。

 あとは愚妻YのPTAの仕事の相談に乗ったり散歩に出たりしてぼんやり過ごしました。

 今日は珍しい月曜のお休みの日。午前中はのーんびりと散歩。イヤハヤ、秋の小金井はのんびりしています。こんなにぼんやりのんびりで良いのかしら。ハロウィンで大変な目に会った人もいるのにね。

 午後は昨日から取り組んでいる某東大の今年の問題の資料を、完成させようとしたのですが…。

 うーーん、今年の問題って何だか難しくないですかねえ。

 これだけ難しい問題は…、T女史なのからしん。~o~;;

 いろいろと注釈書やら出版されている過去問の本やらを見て…、ぼんやりし過ぎで回らなくなった頭で考えているのですが、何だか変です。

 「夢とだに何か思ひも出でつらむただまぼろしに見るは見るかは」

 『浜松中納言物語』のこの歌は、かつて中国の后とはかない逢瀬を持った中納言が

 「ふたたびと思ひ合はするかたもなしいかに見し夜の夢にかあるらむ」(再び逢瀬を持ちたいと思っても思い当る方法もありません。あの夢のような逢瀬は、どのように見た夜の夢であるのでしょうか)と詠み掛けた贈歌に対する后の返歌です。

 「夢とさえどうして思い出してもいるのでしょうか、いいえ、夢とさえ思い出すことは出来ないはずです。私たちの逢瀬は夢よりはかない幻のようなものなのですから、まして思い出すことなどできないはずなのです。ただ幻のような逢瀬では逢瀬などと言えるものではないはずですから」

 このくらいの解釈になりそうなんですが…。注釈書も過去問本もどれもこういう解釈をしてくれていません。

 ワタシの解釈の方が、「まぼろし」なんでしょうかねえ。~o~;;;

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2022年8月12日 (金)

注釈書への疑問その八~都市伝説始まる所

 超久々の「注釈書への疑問」シリーズです。

 水曜の朝刊一面のコラム欄に次のような一文が掲げられました。

 「いつの世も位や欲は人を惑わせる。鴨長明は鎌倉初期の説話集『発心集』で、名刹の最高職を狙った老僧の妄執を描いた。権勢欲に取りつかれ、ポストが得られるなら地獄の釜で煮られてもよいという倒錯した心境に陥る。」

 ううーーーーmmm、ここから都市伝説が始まってしまふかも…。

 一読して、どういうことか事情が推察できました。このコラム執筆氏は、『発心集』第三「証空律師、希望深き事」をどこかで読んだか、内容の説明を受けたかしたんでしょう。当該の説話はこのような内容です。

 薬師寺の証空律師は、僧官の職を辞して長く、また老齢に及んでいたにも関わらず、薬師寺の別当の欠員に志願しようと考えます。弟子たちは道理を尽くして諫めるのですが律師は聞き入れないので、架空の夢の話で律師を止めようとします。その夢とは、

 「この庭に、色々なる鬼の恐ろしげなる、あまた出で来て、大きなる釜を塗り侍りつるを、あやしく覚えて問ひつれば、鬼の曰く、『この坊主の律師の料なり』と答ふるとなん見えつる。」

 (この庭に、様々な色の鬼の恐ろしそうな様子の者達が数多く出て来て、大きな釜を用意していましたので、不思議に思われて尋ねたところ、鬼が言うことには『この僧坊の主の律師のためだ』と答えると見えました)

 すぐに驚き恐れるだろうと予想していた弟子の言葉に対し、証空律師は耳もとまで口を開けて笑って、「この所望のかなふべきにこそ。披露なせられそ(私の望みがかなうということだろう。他言なさってくれるな)」と答えたというのです。

 つまり、弟子たちは、夢の中で庭に鬼が釜を作っていると地獄の釜をほのめかし、このまま現世の地位に執着しては地獄の釜で煮られることになりますよと律師を戒めたのに、律師の方は、その夢は自分の望みが叶う前兆だと喜んだという話なのです。

 この説話には二つ解釈の仕方があります。

 ポイントは夢の中の鬼の言葉中の「律師の料なり」です。「料」は何かの用に充てるために用意する物品を指し、形式名詞として用いられて「ため」と訳される語です。従って、「律師の料なり」は、⑴「律師の(律師を煮る)ためである」か、⑵「律師の(律師に食べさせる)ためである」と理解できます。

 説話の二つの解釈とは、

➀弟子は「料」を⑴の意味で語り、律師も⑴の意味で聞いたが、望みが叶うなら地獄の釜で煮られてもかまわないと開き直った。

②弟子は「料」を⑴の意味で語ったが、律師が⑵の意味だと勝手に受け取り、自分の別当就任の際の祝いの料理の準備と考えた。

 コラム執筆氏は、➀の説で読んだか、あるいはどこかで➀の説の説明を聞いたのでしょう。しかし、➀の説には決定的な欠点があります。弟子たちは別当という地位への執着が仏教的罪障になると考えて律師を諫めたのに、当の律師の方は別当への就任自体を仏教的罪障と受け取ったと読まねばならない点です。

 もちろん、単なる別当への就任は罪になんかなりません。そんなこと言い出したら、歴代の薬師寺の別当は片っ端から地獄落ちってことになるからね。

 「地獄の釜で煮られることになりますよ」という脅しを「それは俺が別当に就任するってことだな」と受け取るというのは無理があるんです。その点で②の解釈の方は無理がないんだけどなぁ。

 『発心集』の数少ない学問的な注釈書である「新潮社古典集成」では、校注者三木紀人氏はこの点について明確な説明をしていません。おそらく、➀②のどちらでもお好きなように、ということなんではないかと。

 ところが、角川ソフィア文庫版『発心集』脚注には、最後の律師の言葉の「この所望」の所に、

 「薬師寺別当になろうという私の願い。地獄の釜が用意されたというのは、欲望がかなえられるからだ、と考えた」と書かれています。

 うーーーん、もしや、都市伝説の水源はここか?

 玉ちゃんよ、この注ヤバくないかい。~o~ 

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2022年4月 9日 (土)

息の長い須磨二題の三~『源氏物語』に関する些細なこと18

 息の長い文をもう一つ。

 須磨退去を決めた後、左大臣邸を訪れ左大臣と語る光源氏の会話文中の一節です。本文は『新編古典全集』です。

 「さしてかく官爵をとられず、あさはかなることにかかづらひてだに、公のかしこまりなる人の、うつしざまにて世の中にあり経るは、咎重きわざに外国にもしはべるなるを、遠く放ちつかはすべき定めなどもはべるなるは、さまことなる罪に当たるべきにこそはべるなれ。濁りなき心にまかせてつれなく過ぐしはべらむもいと憚り多く、これより大きなる恥にのぞまぬさきに世をのがれなむと思うたまへ立ちぬる」

 『新編古典全集』では次のような訳をつけています。

 「この私のようにはっきりと官位を取り上げられるのでなく、いささかの軽い罪に触れただけでも、朝廷の勘気をこうむって謹慎しております者が日常の世間交わりをしてゆくのは、異国でも罪の重いこととしておりますようでございますから、まして、この私に関して異国へ流罪に処するご沙汰などもございます由なのは、特別に重い罪科に当たることになるのでございましょう。心に何一つやましいことがないと信じておりますが、それだからとて素知らぬ顔で過ごしておりますのもまことにはばかり多いことですので、これ以上に大きな辱めにあわないうちに進んで世の中をのがれてしまおうと決心させていただいたのです」

 この部分の訳は、旧全集では、「まして」を欠いています。つまり、旧全集では「だに」を所謂<最小限の限定>「せめて…だけでも」で取ろうとしていたということでしょう。さすがにそれは無理がありそうなので、「まして」を入れて「だに」の<類推>の意をはっきりさせようとしたのだと思います。これも、『完訳』からなので、前々回の記事で触れた「であっても」の訳と同様、故S先生の御意見による修正なのだと思います。

 <類推>の、程度の軽いものをあげ言外に重い物のあることを類推させるという意から考えて、「さしてかく官爵をとられず、あさはかなることにかかづらひて(はっきりと官位を取り上げられるのでなく、いささかの軽い罪に触れた)」という程度の軽いものが「遠く放ちつかはすべき定めなどもはべるなる(異国へ流罪に処するご沙汰などもございます由)」という程度の重いものと対応するというお考えだと推測されるのですが、「さしてかく官爵をとられず、あさはかなることにかかづらひて」は、「うつしざまにて世の中にあり経る」という条件が加わって初めて「咎重きわざ」となるのに、「遠く放ちつかはすべき定めなどもはべるなる」には、「うつしざまにて世の中にあり経る」がないのに「咎重き」ということになってしまいます。

 程度の軽いもの・重いものの対応関係がキレイに出て来ません。そのために訳文が何だかスッキリ理解できません。

 この問題を解決するには、句読点の打ち方を変える必要がありそうです。

 「遠く放ちつかはすべき定めなどもはべるなるは、さまことなる罪に当たるべきにこそはべるなれ」の後を読点にしてこの部分を挿入句として扱い、次の部分の主語になる「私」を説明していると解釈すると、不思議なほどに文脈がスッキリします。そのセンで訳文を作るとこうなります。

 「この私のようにはっきりと官位を取り上げられるのでなく、いささかの軽い罪に触れてさえ、朝廷の勘気をこうむって謹慎しております者が日常の世間交わりをしてゆくのは、異国でも罪の重いこととしておりますようでございますのに、私に関しては異国へ流罪に処するご沙汰などもございます由なのは、特別に重い罪科に当たることになるのでございましょうから、まして、その私が、何一つやましいことがないと信じております心に任せて素知らぬ顔で過ごしておりますのも、まことにはばかり多いことですので、これ以上に大きな辱めにあわないうちに進んで世の中をのがれてしまおうと決心させていただいたのです」

 こういう処理を施すと、とても息の長い文が出来てしまいますが、なにしろ、須磨前半には息の長い文が他にも存在しますからねえ。~o~;;

 これで良いんじゃないかしらん。

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2022年4月 8日 (金)

息の長い須磨二題の二~『源氏物語』に関する些細なこと18

 昨日の続きです。

 この問題を解決するには、副詞「なほ」をどうにかしなければなりません。「なほ」は、本来、「その事態を否定するような状況があるにもかかわらず、事態に変化がなく続いていくさまを表す」(『ベネッセ古語辞典』)などと説明される語ですが、「以前の状態や他のものに比べていっそう程度が進んださまを表わす」こともあるとされ、訳語として「ますます・いちだんと・もっと・ずっと・さらに」などが挙げられています(『日本国語大辞典』)。

 それをそのまま『新編古典全集』の訳に代入して「やはり」を取って二つ目の「だに」も「さえ」で訳して、「だに」の類推の意を明確にするために「まして」を補うと、

 「これがどこをどうさまよっても、必ずまた逢えることが分っていらっしゃるような場合でさえさらに、ほんの一日二日の間別れ別れで寝起きする折々でさえ、気がかりに思われ、女君のほうもただ心細いお気持ちになられたのだから、まして、このたびは幾年どのくらいというきまりのある旅でもなく、再会を期して行方もしらず果てもなく別れて行くにつけても、無常の世の中であるから、もしかしたらこれがこのまま永の別れの旅立ちにでもなりはせぬかとたいそう悲しいお気持ちになられるので」

のようになります。何だか、この方がスッキリして分かり易いですねえ。

 そもそも、この「だに」は二つとも類推の意と考えられるのですが、類推「だに」とは「程度軽いものをあげ、言外に重い物のあることを類推させる」(『ベネッセ古語辞典』)なのですから、このように訳すことで、「行きめぐりてもまたあひ見むことを必ずと思さむにて」「一日二日のほど、よそよそに明し暮らすをりをり」という「おぼつかなきものにおぼえ」る程度の軽いものと、「幾年そのほどと限りある道にもあらず」「逢ふを限りに隔たり行かん」という「おぼつかなきものとおぼえ」る程度の重いものの対比がキレイに示されて、とても論理の筋道が通っている感じになります。

 ただし、この「なほ」を「さらに」と訳すことが語学的に許されるのかというと、そこが今一つ明確ではありません。古語辞典の類では、「以前の状態や他のものに比べていっそう程度が進んださまを表わす」意の「なほ」には、単純に動詞に掛かっていく「なほ行き行きて」や「なほ奥つ方に生ひ出でたる」などの用例しか示されておらず、このような長い条件句同士を接続詞的に結ぶ用法を、「なほ」に認めて良いのかどうか…ちょっと自信がありません。

 でも、この部分をスッキリ訳すには、これしかないんじゃないかしらん。

 ちなみに、例の文豪は、この二つの「だに」を二つとも「さえ」で処理していて上記の訳に近いのですが、「なほ」はバックレて無視します。

 さすが、文豪…。~o~;;;

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2022年4月 7日 (木)

息の長い須磨二題の一~『源氏物語』に関する些細なこと18

 昨日、春期講習が無事終了しました。娘(仮称ケミ)の小学校も始まったので、我が家はしばらく平穏な日が続きます。

 んで、『源氏』「須磨」巻です。「些細なこと17」で取り上げた文章の直後には長大なセンテンスが続きます。

 「うきものと思ひ棄てつる世も、今はと住み離れなんことを思すには、いと棄てがたきこと多かる中にも、姫君の明け暮れにそへては思ひ嘆きたまへるさまの心苦しうあはれなるを、行きめぐりてもまたあひ見むことを必ずと思さむにてだに、なほ一日二日のほど、よそよそに明かし暮らすをりをりだにおぼつかなきものにおぼえ、女君も心細うのみ思ひたまへるを、幾年そのほどと限りある道にもあらず、逢ふを限りに隔たり行かんも、定めなき世に、やがて別るべき門出にもやといみじうおぼえたまへば、忍びてもろともにもやと思しよるをりあれど、さる心細からん海づらの、波風よりほかに立ちまじる人もかならんに、かくらうたき御さまにてひき具したまへらむもいとつきなく、わが心にもなかなかもの思ひのつまなるべきを、など思し返すを、女君は、『いみじからん道にもおくれきこえずだにあらば』とおもむけて、恨めしげに思いたり」

 心内語と会話文を含み込むとはいえ、ずいぶんと息の長い文です。

 ちなみに、「須磨」巻前半には、こういう息の長いセンテンスが多いように思います。単なる印象ですが、この傾向は「賢木」あたりで源氏の不遇が始まるとともに顕著になるのではないでしょうか。

 閑話休題。この文のどこが「些細」なのかというと、

 「行きめぐりてもまたあひ見むことを必ずと思さむにてだに、なほ一日二日のほど、よそよそに明かし暮らすをりをりだにおぼつかなきものにおぼえ、女君も心細うのみ思ひたまへるを、幾年そのほどと限りある道にもあらず、逢ふを限りに隔たり行かんも、定めなき世に、やがて別るべき門出にもやといみじうおぼえたまへば」

の部分の処理です。この部分を小学館『新編古典全集』では、次のように訳しています。

 「これがどこをどうさまよっても、必ずまた逢えることが分っていらっしゃるような場合であっても、ほんの一日二日の間別れ別れで寝起きするとなると、そんな折々ですら、やはり気がかりに思われ、女君のほうもただ心細いお気持ちになられたのだから、このたびは幾年どのくらいというきまりのある旅でもなく、再会を期して行方もしらず果てもなく別れて行くにつけても、無常の世の中であるから、もしかしたらこれがこのまま永の別れの旅立ちにでもなりはせぬかとたいそう悲しいお気持ちになられるので」

 「また逢えることが分かっている」を「一日二日別れ別れで寝起きする」に逆接仮定条件でつないでいく処理をしています。実は、これは玉上琢彌博士の『源氏物語評釈』に出て来る解釈です。また新潮社『古典集成』も頭注で「お思いの場合でも」と同様の解釈をしています。

 しかし、これは文法的にはかなり無理な訳と言わざるを得ません。どの古語辞典を見ても、副助詞「だに」を「であっても」と訳して良いという理屈は出て来ません。

 ところが、小学館旧全集では、この部分を、

 「必ず逢うことになっているのだとわかっていらっしゃる場合でさえ、ほんの一日二日の間別々で寝起きする折々ですら」と訳しています。これなら、副助詞「だに」の処理としては自然です。

 旧全集と新全集の間に出版される『完訳日本の古典』では、すでに「であっても」ですから、この「であっても」は完訳から執筆陣に加わった故S先生の御意見の反映と考えられます。

 しかし、故S先生はこんな無理な訳をする方じゃないと思うのですが、何故、文法的に自然な旧全集の訳を変えたんでしょう。

 察するにその判断は、「思さむにてだに」「明かしくらすをりをりだに」と「だに」が並列されている珍しい文構造と、二つの「だに」の間の副詞「なほ」の関係に起因するものだったんではないかと思います。

 旧全集では、この「なほ」には「『おぼえ』にかかる」という頭注がついていて、「やはり気がかりに思われ」と新全集の訳と同じ訳が施されています。しかし、頭注がついているということは係り受けの関係が不自然だからでしょう。「なほ…をりをりだに…おぼえ」というまとまりの外側に「をりをりだに」と並列される「思さむにてだに」が存在する文構造には、やや違和感が感じられます。

 しかし、だからといって、現実に並列している「…だに…だに」の片方を、文法的に無理な逆接仮定条件で処理してしまうのは、いかがなものかと…。 

 長くなるので、続きはまた明日。

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2022年3月16日 (水)

三度目と二度目の日々

 昨日、愚妻Yは三回目のワクチン接種でした。

 本人は、まだ気が進まない感じだったんですが、お義父さんお義母さんも兄夫婦もみんな済ませたという話を聞いて、ようやくその気になりました。

 ワタシの時と同様、簡単にファイザーの予約が取れました。昨日の午後接種。

 昨日のうちは何も起こらず、「早く熱が出てくれないカシラ」などと言っていたのですが…。

 今朝になって身体の関節が痛いと言っていたら、朝九時くらいから出ました。38.1度まで上がり、午後はずっと寝ていました。「アタシはこんなに早く打ちたくなかったのに…」などとグズグズ言いながら。

 ようやく、夕方スッキリしたそうです。

 さて、Yがスッキリする前に、娘(仮称ケミ)が二度目を持ってきました。

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 前回に続いて、『徒然草』。今度は第109段「高名の木登り」でした。

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 最初の訳(右側)は、まあ、まったくのデタラメになりましたが、「『し』ってのは、過去の表現」と教えて、「いかに」について話し合った結果、どうにか訳らしいもの(左側)をまとめました。

 この後、「おのれが恐れ侍れば」について、いろいろ話して、ようやく大意を掴んでくれました。この話、そんなに難しい話なのかしらん。

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2022年3月11日 (金)

春の散歩と師説発見~『源氏物語』に関する些細なこと17

 ワタシの仕事がなく山に雪はあり、それなのに滑りに行けないというのは、愚妻Yにはストレスになるらしく、「どこか行きマショウ。普段行ったことない所まで歩きましょう」としきりに言います。

 仕方ないから、小金井公園までの散歩で勘弁してもらいました。

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 小金井公園梅林↑は、今が花盛りです。

 さて、それとは関係なく、『源氏』です。「須磨」巻冒頭。源氏が須磨退去を思い立つところなのですが、

 「人しげくひたたけたらむ住まひはいと本意なかるべし、さりとて、都を遠ざからんも、古里おぼつかなかるべきを、人わるくぞ思し乱るる。」

という本文に対して、小学館『新編日本古典文学全集』では、次のような訳を載せています。

 「人の出入りが多くてにぎやかな所に住むのもまったく本意にもとるというもの、そうかといって都を遠ざかるのも、故郷のことが気がかりであろうしと、あれこれと見苦しいくらいに君は思い困じていらっしゃる」

 この訳のどこが「些細なこと」なのかというと、「人わるくぞ」を「見苦しいくらいに」と程度で訳していること。見苦しいくらいに思い乱れるというのは、なんだか妙です。源氏の思い悩む様子が見苦しいほどだというのは、まるでどちらを選ぶか思い悩み身をよじってクネクネしているみたいです。見るからに見苦しい悩み方ってどうやるのでしょう。

 そもそも、「おぼつかながるべきを」を「「気がかりであろうしと」とするのも、文法的には説明し難い処理です。

 もっともここは、所謂「移り詞」(会話文・心内語が地の文に融け込む源氏独特の表現)の箇所と考えれば、上記ののような処理もギリギリでセーフなんですが…。

 おそらくそういう事情もあって近代の注釈書はすべて上記『新全集』と同様の訳をしています。例の文豪さえ、「人聞きが悪いほどお迷いになります」。もっとも文豪の訳だとクネクネにならないのは、さすが文豪というべきか。

 さてこれはどうしたモンだろうと思ったのですが、ナント、『新全集』頭注にこの問題の答えがありました。

 「隠遁を決意しながら、なお古里のことを気にする迷いを、我ながらみっともないと思う。」

 「人わるくぞ」を「我ながらみっともないと」と取れというのです。ナルホド。

 形容詞や形容動詞の連用形が知覚動詞に続く場合、知覚する内容を表すことがあるというのは、現代語にも残る「悲しく思います」などという表現を考えると分かり易く理解できます。「悲しく思う」は、思い方が悲しいのでも悲しいほど思っているのでもなく、「悲しいと思う」意味ですモンねえ。

 この『新全集』の頭注は、旧『日本古典文学全集』頭注も全く同じです。以前にも書いたことがあるのですが、小学館『旧全集』の頭注は故A先生御執筆のはず。『旧全集』現代語訳は故I先生そこに故S先生が手を加えたのが『新全集』訳でしょうから、知覚内容と取る故A先生説に対して、I先生S先生が程度と取ったということなのでしょう。この部分を故A先生の御説に沿って訳すと、

「『人が多くごたごたしている住まいは不本意に違いない。だからと言って、都を遠ざかるようなことも自邸が気がかりに違いないので、我ながら不体裁だ』と思い乱れなさる。」

 このくらいの訳文の方が自然なような気がしますねえ。

 まあ、ホントに「些細」なことなんですが、故A先生独自の御説に触れて、ちよっと嬉しかったモンで。~o~

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