昨日、一昨日と久々に仕事がありました。
とは言え、夏期講習ではなく高1高2の通常の授業です。高2生に写本は何ゆえに異本を大量発生させるかという、およそ一般の高校生は教わらないだろうし、教わって意味があるのかしらんというお話をしてきました。うーーーん、自分のやったことの意義を測りかねる…。~o~;;;
日本語の表記法というものが、かつては誤解誤読誤写を引き起こしやすいシロモノだったという話なのですが、最近は、表記法ではなく、ある表現法が誤解誤読を発生させてるなあと密かに悩んでいます。
念のために先に断っておきますが、亡くなった人を悪く言っているのではありません。純粋に生きている人間の国語表現の問題です。
先日記事にした流行性感冒の人なのですが、「政治信条はどうあれ、国葬にした方がいいと思う」とのたまったそうです。しかし、政治家を評価するのに、政治信条を棚に上げるっていう発想がよくわからない。
「王さんの野球観はどうであれ、国民栄誉賞あげといた方が良い」
これと同趣旨の表現だと思うのですが、うーーーん。
さらに、「カルト宗教が日本人を喰い物にしているのを止めるべきだ。だから国葬にするべきだ」という主張に至っては、もう喩えようもなく論理が破たん…、というか、論理なんて最初から無視しているように思うのだが…。
カルト宗教の看板として利用されて(それが事実としてどうたったのかは問題にしていません。利用されたという一点だけを取り上げています)私怨で死んだ人を国葬にすることが、どうしてカルト宗教被害の根絶につながるのだろー。
国葬にするとはその人の生前の事績を敬慕する意を国民的に示すことです。この場合、カルト教に関するこの人の生前の事績とは、カルト教団の看板として利用されたことなのだが、このことを敬慕しちゃうのが、カルト被害の根絶につながる??????
あまりに謎です。
察するに、この人、その場で耳ざわりの良さそうな美辞麗句を巧妙に並べて相手を説得する、ネット社会の論法を国語的な力だと勘違いしているんじゃないかしらん。その論法で押し切っちゃえってことか。
でも、この人は、たかだか流行性感冒の人だからまだ罪が浅いです。それと、似たような論法を、時の総理大臣が使うとなると、うーーん。
K田総理が、国葬の理由を「我が国は暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜くという決意を示す」ためだと言ったそうなんですが、亡くなった人はカルト教団の看板として利用されて私怨から暴力の被害を受けたわけですから、暴力に屈しない決意とは、政治家たるものカルト教団の看板として利用されることを断固続けて行こうという決意ということになりはすまいか。
さて、それは「民主主義」と呼ばれるものなのか…????
もはや、理解不能、というか、論理であろうとすることを最初から拒否した表現です。その場での美辞麗句を並べて相手を押し切っちゃえーーーー、かよ。
K田さんという人は、某開成高校出身者なんだそうですが、某開成の先生方はそんなことを国語の時間に教えてるんですかね。
今、娘(仮称ケミ)の塾では、某開成志望の小学生達が、それこそ血のにじむような努力を続けているらしいです。ケミさんからチラホラとその子達の刻苦勉励ぶりを聞いています。
K田さんは、そんな国語表現をしていて、その子達に対してOBとして恥ずかしくないんですかね。
某開成のOBの皆さんや学校関係者、特に国語の先生方。恥ずかしくないですか。
それとも、「大学に受かって権力者になっちゃえばどんな恥ずかしい国語表現を使っても、勝ちなんだよ」が某開成という学校のモットーなんですかね。謎。
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