2024年6月 8日 (土)

たわいたわい

 たわいない話を。

 先日、昼食時にYが「変な話ですケド、チサンに『少々ナンあり。尿臭い』って書いて安売りしているピーマンがありマス」と言い出しました。

 「チサン」というのは、駅近くの地産マルシェという農産物販売のお店です。

 「どうして『尿臭い」んでしょう。そんなの買う人いるのカシラ」と首をひねっています。

 木曜日、一緒に買い物に行って「地産マルシェ」を覗いてみました。まだありました。

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 Yは「尿臭い」ものに触れたくなかったらしく、ちょっと離れた所から見ていたらしいんです。「尻くされ」のピーマン。~o~

 ちなみに、「たわいない」を国語辞典で引いたら、[文語 たわいなし]と出てきました。古語辞典引いたら略して「たわい」と言う用例が『仮名手本忠臣蔵』に出てきました。「『御免候へ、たわいたわい』」などと使うとか。

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2023年11月23日 (木)

過ぎたるはおよぶ?

 昨日は久しぶりに一年で一番忙しい日でした。

 数日前から事前実施の答案を採点して採点基準を決め、この日はそれをまとめて午後の会議に持って行かなければならないのですが、なかなか基準が確定しません。

 信西に関する説話で、学問が身に付き過ぎると不運にみまわれるという話なんですが、これがなかなか分かってもらえないようで…。

 どうも、受験生の皆さん、過剰であることが悪いことだという発想がないんじゃないかしらん。

 それで思ったのですが、この十年二十年の言葉で、「~過ぎる」というのがあります。「美人過ぎる市議」「美味過ぎるお茶漬け」みたいなヤツ。この類が褒め言葉として一般化したのっていつ頃なんでしょう。

 そう遠い昔ではないはずです。近年になって日本社会は過剰であることが受け入れるようになったってことなんじゃないかしらん。

 試しにウチの娘(仮称ケミ)に、「『過ぎたるはなお及ばざるがごとし』って知ってる?」と聞いてみたのですが、ナント、「知らない」とサラっと答えられてしまいました。

 去年、Sピックスで教わらなかったか~???

 教わったんでしょう。教わったんでしょうけど、ピンとこないので忘れていたんでしょう。

 そんなことを考えながら、採点基準作りは昨日の昼までかかり、会議の時間ギリギリになってようやく完成。ホッ。

 会議自体はスムーズに終って、例によって自分へのご褒美は、

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 奈良県今西酒造さんの「みむろ杉 Dio Abita 」。爽やかな香りとスパイシーと言いたくなるようなジワッとする刺激。低アルコール酒ながら「みむろ杉」らしい重みのある美酒です。

 べつに「すぎ」だからじゃありません。~o~;;

 それとは関係なく、最近、少しずつ良くなっているもの。

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 一昨日のかぐらのライブカメラです。まだ薄いけど、良くなってます。月末までにはなんとか。

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2023年8月16日 (水)

自分でやらせろ

 日曜日に模試の採点会議があり、今、採点に追われています。

 ウチの予備校でも最高レベルの模試なので、現在の日本のハイティーンの最高の知性が集まっている…

 と思いたいのですが、うーーむ。

 なんだって、この子たち、こんなに日本語での説明が下手なんだか。

 古文の現代語訳とか読解力ではなく、判り切っていることを現代語で説明する力に明らかに大きな差があります。単に主語を明示して誰でも読み取れる簡単な事実について説明させるだけの問題なのに、主語が明示できず、本文中に明らかに示されている人名についての事実を間違え、現代語の当たり前の表現を誤り、簡単な誤字を書き連ね…。

 ああ、ドンドン点数がなくなっていく…。

 こういう現状を見ると、入試改革で表現力を問えだの実戦国語論理国語で説明能力を鍛えろだのというセンセイ方が出てくるのも分からないではありません。

 しかし、この子達が説明能力を失ったのは、もっと根本的なところに原因があるんじゃないのか。こんなことこんなこと。教育以前のところに問題があるんじゃないのかしらん。

 根っこを直さずに小手先の教育改革なんてしたって、意味ないと思うんですがね。子供の時から、自分で本を読んで自分で考え自分で説明する、そういう時間と場を与えていなければ…。

 子供に自分でやらせろってことじゃないの。

 さて、自分でやらせろと言えば、昨日の我が家の夕餉は自分でやる食べ物屋でした。

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 Yクンの見つけてきたお好み焼き屋「みっちゃん」。↑はもんじゃ焼き。

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 割とマトモに出来ました。

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 お好み焼きと焼きそばです。かなーりマトモに出来てます。

 Yは、「奥さんの手料理デス」と胸を張っていましたが、大事な所は全て見るに見かねた店員さんが手伝ってくれました。まあ、そりゃそうだろ。~o~;;

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2022年11月13日 (日)

補助動詞ハラスメントまたはひらがなをつかわせたがるひとたちパートⅡ

 昨日のことです。

 PTAのメールを作っていた愚妻Yが悲鳴を上げました。「あったま来る。もう、やだー!」

 Yは、PTAの主催する行事に関して父兄に伝達するメールを、他の役員さんと一緒に作っているのですが、役員の一人から訂正の要求が出たのです。

 「お願い致します」を「お願いいたします」、「して頂く」を「していただく」とするのが正しいというのです。

 実は、その役員さんの書いた下書きには「いたします」「いただく」となっていたものを、Yが漢字に直していたのです。その時、相談を受けて、「補助動詞は平仮名書きするのが正しいという考え方があって、それに従っているんだろう」と答えていたのでした。

 「どっちでも良いことだと個人的には思うけど、直さない方が良いんじゃないの」と言っておいたのに、「アタシ、平仮名書きは気持ち悪いから」と直してしまったのでした。

 こーのガンコ者め。~o~

 「こんなの補助動詞ハラスメントだよー」とはガンコ者の嘆き節です。

 もう14年も前に、平仮名を使わせたがる人達のことを記事にしたことがありました。その時はろくに調べずに書いたので、今回、ちよっと調べてみました。この補助動詞平仮名表記の話は、どうやら昭和45年の国語審議会で出てきた「当用漢字改訂音訓表(案)」の前文あたりで始まるらしいのです。ところが、答申された「当用漢字改訂音訓表」前文には、補助動詞の表記については出て来ません。何等かの理由で削られたものかと思います。

 その後、昭和56年の内閣訓令第一号に、「していただく」を平仮名書きにする話が出て来ます。この訓令は平成22年の内閣訓令第一号に受け継がれ、どうもそれが現代にいたるらしいです。

 この動詞は漢字補助動詞は平仮名という考え方の問題点については、14年前に書いたので、今回はこの「補助動詞ハラスメント」の問題点について書きます。

 仮に、内閣訓令第一号の考え方が日本語表記の上で正しい考え方だとしても、今回のことには問題点があります。昭和45年の「当用漢字改訂音訓表(案)」前文でも、内閣訓令でも、適用の対象が公用文に限られているということです。

 「当用漢字改訂音訓表(案)」前文などはわざわざ「適用の範囲」という項を立てて、「文芸または個々人の表記にまでこれを及ぼそうとするものではない。」と断っています。つまり、補助動詞平仮名表記を言い出した学者さんすら、これを一般に及ぼそうとは考えていなかったということです。

 要するに、補助動詞平仮名書きは単なる公用文を表記する際のガイドラインに過ぎず、「正しい表記」などではないのです。それなのに、補助動詞漢字表記は誤った日本語表記であり、平仮名表記が正しい表記だと誤解させちゃったのは、こういうオヤジ達ね。~o~;;

 んで、前記のPTA役員さんは、どこかでこういう「正しい表記」を訳知り顔に吹聴するオヤジに教わっちゃったんでしょう。たかがPTAの伝達メールを公用文の表記法で書かなきゃいけない道理はないんですけどね。

 日本語の表記はもっと自由であって良いはずです。「お上が指定する表記法が絶対的に正しい」だなんて、どう考えても変でしょう。

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2022年7月15日 (金)

国語の先生は悩む

 昨日、一昨日と久々に仕事がありました。

 とは言え、夏期講習ではなく高1高2の通常の授業です。高2生に写本は何ゆえに異本を大量発生させるかという、およそ一般の高校生は教わらないだろうし、教わって意味があるのかしらんというお話をしてきました。うーーーん、自分のやったことの意義を測りかねる…。~o~;;;

 日本語の表記法というものが、かつては誤解誤読誤写を引き起こしやすいシロモノだったという話なのですが、最近は、表記法ではなく、ある表現法が誤解誤読を発生させてるなあと密かに悩んでいます。

 念のために先に断っておきますが、亡くなった人を悪く言っているのではありません。純粋に生きている人間の国語表現の問題です。

 先日記事にした流行性感冒の人なのですが、「政治信条はどうあれ、国葬にした方がいいと思う」とのたまったそうです。しかし、政治家を評価するのに、政治信条を棚に上げるっていう発想がよくわからない。

 「王さんの野球観はどうであれ、国民栄誉賞あげといた方が良い」

 これと同趣旨の表現だと思うのですが、うーーーん。

 さらに、「カルト宗教が日本人を喰い物にしているのを止めるべきだ。だから国葬にするべきだ」という主張に至っては、もう喩えようもなく論理が破たん…、というか、論理なんて最初から無視しているように思うのだが…。

 カルト宗教の看板として利用されて(それが事実としてどうたったのかは問題にしていません。利用されたという一点だけを取り上げています)私怨で死んだ人を国葬にすることが、どうしてカルト宗教被害の根絶につながるのだろー。

 国葬にするとはその人の生前の事績を敬慕する意を国民的に示すことです。この場合、カルト教に関するこの人の生前の事績とは、カルト教団の看板として利用されたことなのだが、このことを敬慕しちゃうのが、カルト被害の根絶につながる??????

 あまりに謎です。

 察するに、この人、その場で耳ざわりの良さそうな美辞麗句を巧妙に並べて相手を説得する、ネット社会の論法を国語的な力だと勘違いしているんじゃないかしらん。その論法で押し切っちゃえってことか。

 でも、この人は、たかだか流行性感冒の人だからまだ罪が浅いです。それと、似たような論法を、時の総理大臣が使うとなると、うーーん。

 K田総理が、国葬の理由を「我が国は暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜くという決意を示す」ためだと言ったそうなんですが、亡くなった人はカルト教団の看板として利用されて私怨から暴力の被害を受けたわけですから、暴力に屈しない決意とは、政治家たるものカルト教団の看板として利用されることを断固続けて行こうという決意ということになりはすまいか。

 さて、それは「民主主義」と呼ばれるものなのか…????

 もはや、理解不能、というか、論理であろうとすることを最初から拒否した表現です。その場での美辞麗句を並べて相手を押し切っちゃえーーーー、かよ。

 K田さんという人は、某開成高校出身者なんだそうですが、某開成の先生方はそんなことを国語の時間に教えてるんですかね。

 今、娘(仮称ケミ)の塾では、某開成志望の小学生達が、それこそ血のにじむような努力を続けているらしいです。ケミさんからチラホラとその子達の刻苦勉励ぶりを聞いています。

 K田さんは、そんな国語表現をしていて、その子達に対してOBとして恥ずかしくないんですかね。

 某開成のOBの皆さんや学校関係者、特に国語の先生方。恥ずかしくないですか。

 それとも、「大学に受かって権力者になっちゃえばどんな恥ずかしい国語表現を使っても、勝ちなんだよ」が某開成という学校のモットーなんですかね。謎。

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2022年2月19日 (土)

教育関係者で予備校屋で人の親

 昨日今日と仕事がありません。この季節、仕事がないのは予備校屋の特権でもありますが、経済的には欠点でもあります。

 まあ、というわけでヒマ潰しに最近見たネットの記事の感想をとりとめなく。

 「『成績良ければ医学部目指せ』が日本経済を悪化させる」という記事なのですが、日本経済のことはともかく、この筆者の言う日本教育界の異常なまでの医学部偏重主義ってのに日常的に接している身としては、筆者の主張に大いに肯かせられました。

 ウチの学校などでもそうですが、国公立医学部の志望者は、受験界の頂点の人達と見なされます。現在の受験教育の世界には、医学部志望者→その他の理系志望者→文系志望者というヒエラルヒーが密かに存在しています。

 このうち、理系→文系は不況時の傾向として理解できます。言うなれば経済状況の回復とともに逆転する一時的風潮です。まあ、ずいぶん長いこと続いていますけどね。

 しかし、医学部志望者が頂点と見なされてるっては、考えてみれば歪んでます。

 自分の子供を東大の医学部に何人も合格させた人が教育のエキスパートのように扱われる現在の風潮は、考えてみれば妙なことで、自分の家が医者でもないのに子供達が全員東大医学部というのは、以前であれば「ずいぶんと変わった人だなあ」という評価になったんじゃないでしょうか。

 もちろん、これは当該の方を非難しているのではありません。その方を評価する世間の風潮に疑問を感じているというだけです。

 ところが、予備校屋としては、この国公立医学部信仰というのは、一つの飯の種です。ずいぶん昔に記事にしたことがありますが、医学部に執着して何年もウチにいてくれる生徒さんは、毎年一定の数いらっしゃるわけで、その風潮を完全に否定するわけにはいきません。

 念のために言っておきますが、この昔の記事に出て来る校舎に通う生徒さんの大半は、純粋に医者を目指している人達です。実際、ワタシも「野口英世に憧れて医者を目指しています」というイマドキ珍しいほど純粋な生徒さんを指導したことがあり、この人のために出来る限りのサポートをした思い出があります。

 閑話休題。では、この傾向を一人の人の親として考えると…。

 何だか、納得出来ちゃうんですよねー。だって、今の日本じゃ、お医者さんが一番安定的な高収入を得てるから。子供がお医者さんになってくれれば、少なくとも経済的にはシアワセなのかしらん、と思ってしまう自分が確かにいます。

 でも、ウチの娘は、女医さんの可能性は最初から無いんでねえ。~o~;;

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2021年6月19日 (土)

「読める」と「夢になる」の相関性

 最近、この季節の重荷、某東大対策添削をこなしています。

 某東大を受けようと(少なくとも今は)思っている人達なのですから、ウチの予備校の中でも学力の高い人たちのはずなのですが、かなり出来不出来が分かれます。単語文法の知識量の違いによるところもあるのですが、どうもそれだけではなく、勘の良い人と悪い人で得点率が大きく分かれるようです。

 昨日つけていた理系クラスの冊子にも、知識量はないクセに妙に話の筋が判っていてる答案が混ざっていました。所謂「読めている」子です。

 こういう「読める」子の指導は簡単です。単語文法の知識を増やして減点要素を減らしてやれば、後は本人が勝手に得点します。この子はこれから伸びるな、きっと。

 クラス担任に話を聞いたら、他の教科も有望な子なのだとか。

 こういう、「読める」と「読めない」の差は、どこから来るのかというと、もちろん、今までの読書量などもあるのでしょうが、モノガタリを獲得しているかどうか、なんてことも関わっていると思われます。

 モノガタリってのは、こういうことなんですが…。

 もう十五年も前の記事なんだけど、我ながらなかなか良いこと言ってますね。~o~

 そういう点でいうと、うちの娘(仮称ケミ)なんかは安心かもしれません。なにしろ、家族との日常会話に「芝浜」のオチが出て来る小学生だからね。

 落語を聞く事は、間違いなくモノガタリの継承獲得につながるでしよう。志ん朝さんも大須のマクラで「子供には落語を聞かせなきゃいけない」なんて力説してるけど、ホントその通り。

 某文部科学省さんも、道徳の教科化なんて大馬〇なことは止めて、落語の教科化でもすれば良いのに。~o~

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2021年5月27日 (木)

幻想の超克~ある日の新聞記事から

 昨日の朝刊に夏の東京五輪中止を求める社説が載って、ちょっとした話題になったそうです。しかし、「賭けは許されない」とは、拍子抜けするほど当たり前の話です。

 その社説の隣の紙面に、ICT教育についての記事がありました。それを読んで思い出したことがあります。

 昔、多分五十年以上昔、ディズニーか何かのお気楽映画で、コンピューターが競馬の予想をして大儲けする話を見たことがあります。その時、子供ながらにちょっと違和感を感じたものでした。

 確かに、当時からコンピューターだったら何でも可能になるという幻想がありました。上記の映画はその幻想に則った筋立てなのです。コンピューターを利用すれば何だって出来るんじゃないかと大多数の一般人が考えるから成り立つ筋立てです。

 しかし、いくらコンピューターだって大儲けするほど競馬みたいなものを当てられるのかしらん。

 子供だったワタシは薄々そんなことを感じていたんだと思います。そして、その予感はスーパーコンピューターやAIが発達した現在に至って妥当なものだったと実証されました。

 某文部科学省さんの「GIGAスクール構想」とやらは、どうも、上記の映画の時代から脈々と「コンピューター幻想」が続いていることの証左のようです。

 コンピューターを利用しさえすれば、「学びの個別最適化」をすることも「創造性を育む」ことも、何だって可能なんだー。

 とは、随分と単純なんですね、文部官僚って。~o~

 そんなことが可能になるエビデンスは無いと新聞記事は言っています。そりゃそうだろ。

 ICT授業をやらされる身となって、切実に感じます。ICTはただのツールに過ぎないのだと。

 確かに、子供たちがお手軽お気軽に学習を進められます。多少、ゲーム感覚もあって取り組みやすいのは事実です。しかし、それが学力の獲得につながるかどうかは、結局のところ、教材の良しあしによるし授業を運営する教師の努力によります。要は人間の力です。

 ICT授業を企画する側も教材作成の側も授業運営する側も、全ての授業に関わる人間がコンピューター幻想を超克してこそ、有効なICT教育が成立するのです。ICTはただのツールであり、その効果は利用の仕方によって決まるのだと、全員が地に足をつけて考えなければならないということです。

 コンピューター幻想に捉われたままのICT運営は、結局、子供達を「実験台」にすることになります。賭けが許されないのは教育も同じなんですよね。

 というわけで、今、今週のICT授業の準備をしています。コレ、マジで大変なんだよー。~o~;;;

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2020年10月 2日 (金)

三五夜の思い

 昨日は仲秋の名月だったようです。

 夜の池袋の授業が終了して、小金井に帰ってみると、お団子が待っていました。小金井の我が家の窓からも月影は鮮やかでした。

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 月にダンゴ↑。

 お団子食べながら、前日の夕刊の記事について考えていました。

 「逆風の古典 見つめ直すと」のタイトルで高校国語における古典教育の必要性の是非を論じていたのですが、うーーん。

 故A先生なら、「私達が来た道を知らずして私達自身を知る事はできません」とおっしゃるでしょう。講義の中でも、古典を学ぶ意義について何度か語っていらっしゃったと記憶しています。

 故A先生は、押しも押されぬ『源氏物語』の大権威ですが、ご自身が『源氏』に取り組んだきっかけについて、「戦後、我々は古い日本と対峙せねばならなかった。今までの日本を打倒せねば、新しい日本の道は開けないと思っていた。今までの日本を打倒するためには、古い日本の本丸である『源氏』を知る必要があった。それで取り組んでいるうちに取りつかれた」という意味のことをおっしゃっていました。

 古典を学ぶことは日本文化を知ることです。日本文化というのは、すでに死んだ化石などではなく、今生きてる自己そのものです。自己の思念、思想、言語、感性、それら全てが日本文化の上に生まれたものです。例えば、この夜、小金井の窓辺に置かれた月見団子だって日本文化の産物です。

 そして、A先生もおっしゃっていたように、日本文化を知らずに自己変革も自己向上もありません。いわんや、文化や社会の進歩発展もありません。

 古典を学ぶことなくGDPやら収入増加やらを求めるのは、根のない切り花だけを求めるようなものです。日本全体でそんなことを始めたら、ほどなく花も咲かなくなります。

 夕刊の記事によると、切り花だけを求めるかのような新学習指導要領に、日本学術会議が提言をまとめ、「現代人と古典を分断しかねない」との危惧を示したそうです。

 その日本学術会議自体が、政権側からコントロールされようとしていると、今朝の朝刊は訴えていました。学術会議の皆さん、ここが踏ん張りどころですよ。

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2020年5月20日 (水)

問われる日々確かめる日々

 今週、娘(仮称ケミ)は小学校の課題である「東京都大使」というのに取り組んでいました。東京の地図に名所を書き込んで写真を貼り説明を加えるというもの。

 自分で行ったことのある高尾山やら小金井公園は簡単で良かったのですが、適当な写真が見当たらない多摩動物公園やら狭山スキー場やらはワタシに適当な写真を探させます。

 しっかし、「狭山」って東京都なのか???

 という疑問は、「ま、いいじゃないですか」と愚妻Yに押し切られました。~o~;;;

 困ったのは、「皇居」について問われた時。日本の親が子供に何か教えようとする時の最難問の一つでしょう。仕方ないから、ゆっくり時間を掛けて、歴史を遡って教えました。自分自身の日本人としての基本的スタンスを確かめるような作業です。

 昨日は、ケミさんのレーシングコーチとの面談の日でした。面談と言っても、このご時世なので会うわけにいかず、電話面談ということになりました。

 ケミさんのレーシングコーチの良いところは、子供に単に技術を教えるだけでなく、レーサーとしての自立を求めるところです。小4と言えども、昨シーズンの反省を求められます。

 もちろん、小4ですから、かなりソフトな求められ方なんですが、それでも、「野沢のレースのゴール前のプルークは何秒ロスしたと思う?」「今シーズン、コーチに言われた自分の欠点を三つあげてみて」などという問いには、ケミさん大分困ってしどろもどろでした。

 今シーズンの自分自身を確かめる作業です。少しずつそういうことも出来ないとね。

 今日、我が家は、久々に車を動かしてみました。ところが、またまた故障が…。

 軽い入院です。確かめたのは、この車はもう当てにしちゃいけないこと。問われたは我が家の経済力…かな。~o~;;;;

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